3.第三者

「なあ、咲良」

 休み時間中、いつもそうしているように机の上で寝そべっていると、そんな声が降ってきた。顔を上げると、1学期の間にすっかり見慣れた1人のクラスメイトが、向かいの席の椅子を引き寄せて逆向きに座っている姿が映った。

「……何、宗次」

 自分の意識を確かめるような声で、相手の名前を呼ぶ。ちなみにそいつの本名は旗村宗次(はたむら そうじ)と言う。



「いやさ、お前、細川とどこまで行ってんの? 噂んなってるぜ」



 噂。もうそんなのが流れてるのかと、僕は溜息をついた。今日は9月の最初の土曜日で、細川が転入してきてからはまだ3日目だ。

「どこまでって言われても……適当に喋ってるのと、一応送り迎えやってるだけだけど」
「送り迎え? つか、喋るってだけでも、なんで俺に出来ねえでお前が出来るかなァ」

 素直に答えたつもりだったが、宗次には眉をひそめられた――ある意味では無理もないのだろう。細川は僕以外のクラスメイトとは未だに関わろうとしないのだから。逆に言えば今のところ僕だけが関わりを持っているから、噂なんて立つのかなと思った。

「……さあね。努力が足りないんじゃない?」
「うわ、それものすげえお前に言われたくねェわ。お前普段そんな柄じゃねーだろ」

 しかめつらになった宗次の顔を見て、僕は思わず苦笑した。持たれてる印象はあまり良いものじゃないらしい。もっとも、それは1学期分の付き合いでお互いとうに知っていることだし、だからといって仲が険悪なわけじゃないことだってお互い知っている。



「……何だっけ、話。細川がどうかしたの?」
「ああ、そうそう。実際、お前もう手ェ出したの?」
「出してない、手なんか。……出せるわけないって」

 宗次はからかうように訊いてきたが、あまり余裕を持って流すことはできなかった。細川はそんな軽い話題に持ち出せるような状態じゃないのだ。
 具体的にそうは言わなかったが、宗次は冗談の色を表情から消した。

「……にしても、やっぱりあのままじゃなあー……せっかく可愛いんだし、仲良くしてえもんだよ、俺は」
「……何て言うんだっけ。人脈? は広いよね、そっちは」

 なんとはなしに口にした言葉だったが、宗次はにやりと笑い返してきた。そっちには自信があるぜ、と言わんばかりの笑みだ。実際、こいつは広い友人関係を築いているようで、同級生の誰に声をかけられても、それとなく調子を合わせて会話を楽しんでいることが多い。もっとも本人は、確かに付き合いは広いけど、あんまり深くもないんだと愚痴ることがたまにあるけれど。
 とにかくそんなわけで、宗次という人間は学校内の噂などには敏かったりする。『噂そのもの』が事実なのかどうかは別問題にしても、『何かの噂が流れてる』ことがこいつの口から出ると、事実それは誰もが知ってる噂だったりすることが多い。

「……まあ、それはともかく。……細川と話したいんなら、根気よくね?」
「……無視されてもめげるなってか?」
「そ。……ただ、優しくしてあげるのは忘れないようにね?」
「……人見知り気質みたいだから、か?」
「うん。……まあ、その辺はわけありだけど、僕からは話せない」
「オッケ、わかった」

 いくつかアドバイスみたいなことを言うと、それに深く納得するように、宗次はこくこくと頷いた。と、そこで次の授業のチャイムが鳴った。

「じゃ、またな」
「うん」



 宗次はそそくさと自分の席に戻っていった。なんとなく、その様子を僕は目でぼんやりと追っていた。

 土曜日なので、授業は午前中までだった。
 放課後になり、いつものように僕は屋上へふらふらと出ていった。
 残暑はまだまだ厳しいようで、喉を通る空気が生ぬるく感じられる。けれど、結局そんな風に暑かろうと、または寒かろうと、この習慣が変わることは当分ないだろう。
 きょろきょろと見回して、とりあえず屋上の角の縁のほうに腰を下ろして、背中を預けて、ぼーっと空を見上げる。今日は雲もそこそこあるけど、それでもよく晴れていて、空がいい青色をしていた。



 寝そべってから少し経って、また屋上のドアが開いて。そこから顔を出したのは細川だった――彼女は昨日もここに来て、校門のあたりをずっと眺めていて。帰ろうと言い出した頃には、学校に残るのは部活動に精を出す人間ばかりで、校門のほうは人がほとんどいなくなっていて。それだけで人の気配そのものが薄くなった彼女の帰り道に、僕はまた付き添って。彼女を無事に送り届け、それから自分も家に帰る――1日に下校にかかる時間が30分程度、2日だと1時間――計算するまでもなく、毎日30分って厳しいなと今更のように思うが、ちょっとした運動のようなものだと割り切れば、なんとかならないこともない。
 ともかく、おそらくは今日も家に帰るまでは30分かかるんだろうなと思いつつ、細川の姿を視界に入れる。彼女は今日も、僕とは別の屋上の縁から、どこか――おそらくは校門を見下ろしている。実際は違うのかもしれないが、わざわざ体を起こしてまで確認する気は、脱力しきった今の僕にはない。



 屋上には今、2人だけ。だけど会話を交わすには距離が遠すぎるし、どちらも自分から歩み寄ろうとはしない。だから、聞こえてくるのは遠くからの、車が走る音だったり、部活動に打ち込む人間のかけ声だったり、あるいは夏真っ盛りの頃とは微妙に違う蝉の鳴き声だったり。どれも、屋上と言う場所からもたらされた音じゃない。屋上そのものは、ひたすら静かだった。



 日差しが強くて、屋上の床からの照り返しがあるせいで、暑くて暑くて。だけど脱力してぼんやりしていると、その暑さすら心地よく感じられて、うとうととして。だけど完全に眠りに落ちるまでもいかなくて。意識をまどろませながら、ただ時間が過ぎ去るのを待つ。この時間の終わりを、僕は自分から下す気はなかった。
 ただ、彼女が動く時を待つ。帰りたいと思って、昨日と同じように僕のところに来るのなら、その時に僕は動くとしよう。それまではただ、待っていよう。

******

「みーやーつきーぃ」

 今日は掃除当番だった。適当にやって適当に終わらせて、今頃は屋上にいるはずの漂くんを追って早足になって、階段を上がろうとしたところで、そう呼び止められた。

「何よ」

 思わずきつめの声で返事をしながら振り返ると、ちょうど相手が肩をすくめる姿が見えた。

「なんだよ、ちょっと呼んだだけじゃん」
「あーはいはい。きつかったでしょうね、ごめんなさい。何か用?」

 おざなりながらも謝ってみせる。相手は軽く息をついてから、改めてあたしを見た。

「用っつうか、訊きたいこと。咲良にもちらっと話聞いたんだけどよ」
「なによ、早く言って」
「あー悪い。お前、細川って知ってる? うちのクラスに転入してきた奴でさ、なんか咲良と仲いいんだけど。お前、咲良と付き合ってんじゃなかったっけ」

 あたしは少し言葉に詰まった。どうしてこいつがそんなこと訊くんだろうと思って、それからどう答えてやろうかと思って。別に動揺したわけじゃない。

「知ってるわよ。けど別にどうも思ってないっていうか。何、嫉妬してますって答え聞きたいわけ?」
「いや、そういうんじゃねえけど。咲良と仲いいっつうか、咲良とだけ何か口利くんだよな」

 ふうん、とあたしは鼻を鳴らしてみた。まだ日がそんなに経っていないことも大きいだろうけど、阿由ちゃんはまだここに馴染めていないらしい。でも、クラスメイトには漂くんだけじゃなくて、こいつみたいに――旗村みたいに、関わりたいって思ってる奴もいるのに。まあまだそれを言うには無理がある段階って感じだけど、それにしてももったいない。

「仲良くなりたいの?」
「まあな……特に、せっかく同じクラスなんだし。あんなんじゃ、変なのに目ェつけられそうじゃねーか?」
「うん、それはわかる。……彼女、どこ行ったかわかる?」
「あ、なんか上あがってった。追おうかなって思ったけど、お前に訊きたいことあったし、一応待ってた」
「そうなんだ。……じゃ、今から来る? あたしもそっち行くつもりだったんだけど」
「あ、そうする」

 旗村はあっさり頷いた。じゃあ決まりと言って、あたしは1段飛ばしで階段を駆け上がっていった。旗村も同じようにして、あたしが目指す屋上へとついてきた。



 すぐに屋上に着いて、ドアを開けた。後から旗村が来るので、とりあえず様子を窺うのは後回しにして、あたしはさっと屋上に身を躍らせた。
 右斜め前の隅っこに、漂くんがいた。彼もあたしに気づいたようで、視線をこっちに向けて。とりあえずそれにあたしは軽く手を振って応じた。
 一方で、阿由ちゃんのほうはこっちに来てないのかなと思って、慌て気味にきょろきょろしてみたけれど、彼女はちゃんと屋上の中にいた。漂くんとは真逆の左斜め後ろの隅で、彼女は屋上の下をずっと見つめていた――人が来たことに気づいているのかどうか、その背中からはわからなかった。

 とりあえず2、3歩ほど真正面に歩いてから、漂くんと阿由ちゃんのどっちに話しかけようかなと迷いつつ、2人の姿を交互に見やる。ちなみに真後ろでは旗村がようやくドアを開けて、屋上の様子を窺っていた。

 結局、あたしは漂くんのほうに歩み寄った。迷いはしたものの、阿由ちゃんにはなんだか声をかけづらかった。もし声をかけたら、急なことでびっくりするかもしれないから。今のところ、彼女はとても繊細で壊れやすそうに見えるから、びっくりなんてさせたくない。そんなわけで、消去法だった。

 で、あたしが歩いていくと、その後を旗村がついてくる。そいつがそうするのはそれなりに自分で決めたからなのか、単に主体性がないのか。僅差で後者のような気がするようなしないような微妙な印象だなと、そんなことが頭の中をよぎる。

「こーんにーちは、っと」

 歩調に合わせて挨拶して、言い終わりでぴたりと足を止めてみる。それだけのことがちょっとだけ面白くて軽く笑いながら、あたしは漂くんの前でしゃがみこんだ。

「……お前、暑いのにこんなとこでよく眠れるよなァ?」

 後ろから、呆れたような旗村の声が、漂くんに向けられた。でも、漂くんはあまり気にしてはいなさそうで、それどころか同じ条件で一緒にいる時は、あたしもあまり気にならなくて、むしろ気持ちよくて――旗村の言葉は、その気持ちよさに水を差しているような気がした。しかも、よくよく普通に考えればわからないでもないだけに、涼ませようとして冷たい水をかける余計な善意のようにも取れる。

「……別に、これっくらいどうってことない。外で寝るのは慣れてるし」

 当の漂くんはぼんやりとそう返す。その言葉に、あたしのほうは妙に説得力を感じたりする。雨とかで屋上が濡れたりしなければ、彼は放課後を大抵ここで眠って過ごすから。少なくとも、初めて会って、そして一緒にいるようになってから、漂くんはずっとそうだったから。
 とはいえ、彼が外で眠るのに慣れているのには、もっと深い理由があるようで――夏休み中、1週間以上も家を空けていたこともあると観沙さんに聞いた時は、さすがにびっくりしたけれど。実際その話を聞いた時、漂くんは家にいなかったし、その後も何回か彼の家を訪ねたものの、彼はいたことはなくて。結局、夏休みの間、漂くんには会えなかった。だから実は始業式の日が1ヵ月半ぶりの対面だったりした。
 そういう事情を知らないで、旗村はまだ何か言いたそうに顔を歪めていた。それを尻目に、夏休みのことを思い出したせいか、あたしはそっと漂くんに寄り添った。

「……人目気にしろよお前、っつうかお前ら」
「別に、今ここ人ほとんどいないじゃない。人目ってあなたくらいよ?」

 言い募る旗村に適当に返しつつ、あたしは漂くんに擦り寄る。その感触は、なぜか他の人に同じく擦り寄るより気持ちいい――頭の上がざわざわとして、撫でられているんだと気づく。それがさらに気持ちよくて、あたしのほうもさらに漂くんのほうに体を寄せて。甘える猫になった気分だった。

「……バカップルめ」

 何か呻くような声が聞こえたけれど、あたしは気にならなかったし、漂くんも気にした様子はなくて。結局、旗村を蚊帳の外にやって、あたしたちは屋上でのんびりと時間を過ごしていた。



 しばらくすると、旗村はその場に居づらくなったのか、踵を返して、少し早足であたしたちから遠ざかっていった。いや、阿由ちゃんに歩み寄っていったというほうが正しいか――少なくともあたしは、やりとりの間も阿由ちゃんからは意識を外してはいなかったけれど、彼女は最初に見かけた時の状態からほとんど動かないまま、屋上の縁の向こう側に顔を向けていた。
 とりあえずやりとりがどうなるかなと思って見ていようという姿勢を決めた矢先、旗村が近づいてからすぐ、阿由ちゃんはささっと離れて、逃げるようにこっちに歩み寄ってきた――慌てて振り向いて追おうとして1歩を踏み出し、でもその次を踏み出せないでいる旗村の姿が見えた。
 それをまったく見ようともしないで、阿由ちゃんはあたしたちの傍までやってくると、膝からがくりとへたりこんだ。よく見ると、肩が少し震えている。

「……大丈夫? 何言われたの?」

 漂くんから離れて、あたしは阿由ちゃんの右肩をそっと撫でながら、声をかけた。首を振る動作が、まず返ってくる。

「……いきなり、声、かけられて……びっくり、して」
「……あたしたち……あいつも含めてだけど、結構前からここにいたよ?」

 阿由ちゃんはなおも首を振っただけだった。気づいていなかったのか、気づいてたけどそれでも駄目だったのか、判断がつかない。
 一方で、旗村は未だに遠くで立ち尽くしている――無理もないのかもしれない。あたしと漂くんの組み合わせから離れたくて阿由ちゃんに声をかけたのに、当の阿由ちゃんに拒絶されて、行き場所がなくなって。ことごとく貧乏くじを引いているみたいな感じだった。
 多分、悪いのは、というより問題があるのは旗村じゃなくて、阿由ちゃんのほうで。ただ声をかけただけなのに、怯えて、拒絶して。他人に心を開けないままで。

 そのままでいいわけがない。そんな態度を取られて、相手は気分がいいはずないだろう。そんなんじゃ余計に敵が増えるだけで、そうなったら阿由ちゃんはますます他人と打ち解けられなくなる。悪循環が待っている――力にならなきゃって安請け合いも、したくなるってものかなあ、と思ってみる。



 結局その後ほんの少しして、旗村はそそくさと屋上を去っていき、残ったのはあたしと漂くんと阿由ちゃんのたった3人になった。
 そしてそのまま、阿由ちゃんも漂くんも、屋上から動こうとする気配を見せなくて。だから、あたしも動くことができなくて、しばらくという感覚以上に長い間、屋上に留まっていた。

******

 俺の居場所は、あそこにはない。そう思わずにいられなくて、俺は屋上を出た。

 咲良と宮月はお互いにべったりで、どっちも自分たち以外のことには興味なんてなさそうで。細川はなぜかその2人には気を許しているものの、俺に対してはそうはいかなくて。むしろ、俺はそうさせるつもりなんてなかったのに、声をかけただけで怯えられ、逃げられて。



 結局、居心地の悪さが鉛のように感じられただけだった。実際、鉛か何かを飲み込んじまったみたいに、胃のあたりが重く感じられる。屋上を去ってみたところでそれは軽くなったわけじゃないが、重さを増したりもしないってだけでも救いなんだろうか。



 盗まれると困るんで、鞄はもう持ち出していた。だから教室には寄らないで、そのまま帰るだけ。ぷらぷらと校門に向かって歩きながら、思う。

 あの3人は、あれでいいんだろうか。外側から触れにくいというか、近づきにくいというか、そんなようなものを感じないではいられなかった。寄せ付けないってのとは違う気もするが、3人だけの、小さくてあれ以上大きくならない塊、のように見える気がしてならない。俺のただの思い込みかもしれないが、あのままでいいんだろうかと思わずにはいられない。



 ああだこうだと考えながら歩いていると、いつのまにか自分がもう校門に出ていることに、今更のように気づく。気づかなかったらそのまま車道に出て車に撥ねられちまってたかもしれんと思うと、軽くヒヤリとして――ふと、目の前の車道の光景に違和感を覚えた。



 反対車線の脇に、黒くてでっかいワゴンが1台止まっていた。遠目だからか、窓の向こうは見えない。けれど、目の前を通り過ぎる車に白いのが多いからか、それとも他の車が走ってるのにその黒ワゴンが校門に向けて停車してるからなのか、それとも得体の知れない何かなのか。とにもかくにも、ワゴンを見て俺は違和感を感じずにはいられなかった。

 けど、だからどうだと言うんだろう。違和感があったからってワゴンを調べる義務まで、俺にはない。警察じゃあるまいし、それどころかそんなことをしたら俺が怪しまれかねない。

 気にはなっても、放っておくしかないとはわかっていた。けれど、それでも少しの間、俺は校門の脇に突っ立って、その黒ワゴンをなんとなく眺めていた。






 結局、そのワゴンに動きはなくて。だから俺も、違和感の正体を突き止めることはできなくて。そのまま視線を外し、俺は帰り道を歩き始めた。違和感があっても興味があったわけじゃないから、ワゴンのナンバーは覚えずに。



 それが、なんとなく奇妙なワゴンに対する俺の第一印象だった。

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