挿話――彼の中の悪夢――

 痛い。



 からだじゅうが、痛い。



 焼けるように、痛い。ずきずきと、痛い。



 触れられなくても痛いのに、その体を殴ったり、蹴ったり、踏みつけたりするやつがいる。わけがわからないくらい、痛い。






 痛くて、痛くて、痛くて。






 痛い以外のものを感じられなくて、地面に押さえつけられて泣き叫んでいる僕がいる。






 痛い。嫌だ。こんなの嫌だ。助けて。



 訴えても、誰もそれを聞いてくれない。それどころか、暴力は止まない。



 痛い。やめて。助けて。僕を許して。












 ただ、僕は泣き叫ぶしかできなかった。そうするほどに、暴力がひどくなっていったとしても。



 悲鳴を抑え込むことができなかった。痛い、痛い、痛い。体がそれを訴えるたびに、反射的に叫んでいた。












 無駄であっても、僕は叫び続けることしかできなかった。




















 叫び声を聞いた気がして、いつのまにか僕は目を覚ましていた。リビングのソファの上に、体を横たえていた。
 目を覚ましたと思うのは、目が開いている感覚が実感としてあったからで、視界のどこかに明かりの類があったわけじゃない。というより、視界どころか部屋のどこにも明かりはなかった。真っ暗だった。
 まだ、夜だ。目覚めていい時間じゃない。しかも、きちんとおやすみを言って眠ったはずなのに。
 それなのに、真夜中に目覚めてしまい、しかももう1度眠ろうとするには目が冴えすぎていた。



 どうしてこうなったのだろうと、体を起こして腕を組んで、考えてみた。とは言っても、確信はないものの理由のようなものには思い当たった。

 目は冴えているが、目覚め心地は良いものじゃなかったし――おぼろげだけれど、嫌な夢を見たという記憶があった。



 詳しい内容は覚えてはいないけれど、悲鳴ばかりを聞いていた気がする。目覚める直前に聞いた気がした叫び声も、印象としては耳障りなもので。
 そこまでは単にぼんやりと考えた。そこからは整理を進めつつ考えた。夢の中の悲鳴を、僕は聞いていたのではなく、自分で叫んでいたのだと思う。



 何かが嫌で、嫌で嫌でたまらなくて、その時の僕なりに必死になってその嫌なものから逃れようとして、ただただ叫び続けていたのだと思う。
 そう考えると、ある意味ではごく普通の夢を見ていたのだと思う。ただし思うと同時に、何か胃がじわりとむかつくような感触を覚えたけれど。



 今の僕は、自分自身の記憶から夢を見たのだと自覚する。不快なものでしかなく、けれど否応無しに全身に刻み込まれ、忘れられなくなってしまった記憶から来た夢なのだと。



 あれは2度と味わいたくないものだった。だから、追い払う術を知らなくちゃならなかった。そして今に至る――今は大丈夫なはず。身に降りかかる火の粉を払うくらいはできるようになったはずだ。

 けれど、それでも体の痣は消えないし、記憶も消えてくれない。打たれれば僕は弱いし、夢に見る以上、記憶に傷として残っているのは認めるしかない。

 ただ、それでも。打たれ弱いなら触れさせなければいい。これからもずっとそうであればいい。問題の1つは、それで乗り切れる。



 記憶については、僕には対処法はわからない。実際に痛めつけられることがなくなってからも、夢に見てしまい、こうして真夜中に目覚めて再びの眠りにはつけなくなることもあった。ただ、最近。高校に上がってからは、なぜか夢に見ることはなかった――今日が、初めてのことだった。

 どうして今更こんなことになったんだろうと思うが、すぐに理由に行き当たった。
 浩都の話を聞いたからだと思った。
 あいつが、かつての僕のように、クラスメイトに袋叩きにされたりなんかしたから。



 あいつまでそんな目に遭ってほしくなかったのに、そうなって帰ってきた。心配でたまらなくて、助けてやりたくて仕方なかった。けれど浩都は、僕の手を振り払った。いらないと言った。

 それを破って手を貸せば、浩都は僕を見放すかもしれない。僕の手を振り払った時の浩都の顔からは、そんな感情が見えてしまった。だからこそ、手出しすることを許されなくて、僕はただ見守っているしかできないことを実感させられて。



 それを見て、僕の中には不安しかなかった。一度相手に袋叩きにされてきて、また同じことが繰り返されるんじゃないかと。どうしても、考えが暗い方向に落ち込んでしまって。



 安心できないままその日の夜を迎えて、浩都のことは一緒に泊まると言い出した宮月に預けて、2人に自分の部屋を貸して、僕自身はリビングのソファで1人で眠りについて――そして、悪夢を見たのだと。



 かつての僕の記憶。味わいたくなんかなかったのに味わってしまった、子供の頃の地獄。









 今は違う。今の僕は強いはずだ。自分だって、その気になれば誰かを守ることだって出来るはずだ――それなのに、未だ忘れられない記憶の中の僕は、弱いまま、頼りないまま、あらゆるものに痛めつけられて、まともな抵抗もできず、ただ悲鳴をあげているだけ。自分すら守ることができず、弱いだけでしかない、その姿。

 それは嫌だ。弱いのは嫌だ。自分を守れないのは嫌だ。同じように、誰かが痛いのも嫌だ。守りたい。守りたい。何もかも守りたい。



 だけど今、僕は浩都を守れない。今、浩都は僕を必要としない。意地を張って、僕を頼らないで、また傷ついて帰ってくるかもしれない。僕はそれが嫌なのに、それでも浩都は僕を頼らない。

 どうして頼ってもらえないのか。それどころか、どうして拒絶されなければならないのか。考えなきゃいけなかった。僕が弱いからなのか。違う。僕は弱くないはずだ。弱くはなくても力が足りないのか。違う。浩都くらい助けてやれなくて、弱くないなんて言えるものか。そしてその気になれば浩都くらい助けられるはずだし、助けることが出来て当たり前、出来なきゃいけないんだ。でも実際、浩都には頼ってもらえない。どうしてだ。

 他に出来ることが何も無くて、けれどこのまま放っておくのはとても怖くて。

 どうして頼られなかったのか。あいつと同じ状況になって、例えば僕はどうした。どう動いた――触れていたくない記憶の中に、あえて潜り込む。






 あいつが僕と同じ目に遭っている。僕の状況はどうだった――ただ痛くて、抵抗もできなくて、誰にも頼れなくて。けれど姉さんには頼りたくなくて。その時、姉さんがなすすべもなく巻き込まれてしまうのも嫌だったから。姉さんを外して、他に誰も頼れる人がいなかった。だから最終的に、僕は自分が強くなる道を選ばなきゃならなかった。

 必死になって、弱くて惨めなだけの存在から抜け出そうとした。



 いきなり状況が変わるわけじゃなくて、はじめはやっぱり袋叩きに遭って、苦しいだけだったけれど、抵抗を少しずつ、少しずつ激しくしていった。こっちがボロボロになる頃に、相手にも少しの傷を負わせ、次には1人くらいやっつけるようになり、その次には相打ちになったり、何回も何回も、回数だけで嫌になるほど暴力への抵抗を繰り返すうちに、いつのまにかどんな相手でもあっけなく倒せるようになっていた。どう攻撃すれば相手が揺らぎ崩れていくか、意識しなくてもそれがわかるようになっていた。



 暴力から逃げたくて僕が手にしたものも、また暴力だった。けれど、身を守るために、持たなければいけない力でもあると今の僕は思う。本当に必要な時以外は絶対に振るってはいけない力だと、自分に律することさえ忘れなければ。振るわれる側には痛いだけの力であることを知り、振るわれる側を守り、振るう側には思い知らせなきゃいけない。



 もしかしたら。ただ僕がそう思っているだけで、浩都本人は違うと言うかもしれないけれど、僕と同じことを浩都はやろうとしているのかもしれない。誰にも頼らないための力を、あいつは今欲しがっているのかもしれない。実際どうなるかわからないし、僕の傷を浩都は知らないけれど、浩都は僕と同じことをしようとしているのかもしれない。だから、誰にも頼らず問題を片付けようとして、僕を頼らないのかもしれない。



 そんな風に考えが及んだが、それでも浩都への不安は消えなかった。僕と浩都では決定的に違うものがある。僕には頼れるものがなかったけれど、あいつにはある。今、傍に僕がいる。それなのにあいつは頼らない。

 もしかしたら、将来的に浩都のほうが僕より強くなるのかもしれない。自力でなんとかしようという、欲と言ってもいいのだろうか、それが僕よりも強いのかもしれない。頼れるものがあるくせに頼らないから、そうなんじゃないかと僕は思ってしまう。






 どうにかそうやって考えをまとめたとしても、あるいはまとまりきらなかったとしても、さらには混沌から抜け出せなかったとしても、結局僕が浩都に対して何も手を貸してやれないことに変わりはない。

 そして僕がやらなければいけないこと。昨日はこういう風に考えられなくて、半ば懇願するように頼っていいんだと言ってしまったけれど、それはやってはいけないことで。そうではなくて、僕自身が抱える不安や苛立ちなども全部飲み込んで、浩都を見守っていなければいけないのだ。浩都が必要としていないのに、手を出してはいけないのだ。



 そして、願わくば。浩都には、抱える問題に早いところ答えを出してもらわないとならないのだ。これは僕のわがままでしかないけれど、答えが出ない限り、僕は溜め込んでいなければならないから。そんなのはつらいから。












 無理矢理なまでにそこまでこじつけて、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。相変わらず目は冴えてしまっているけれど、体は気だるくて。再びソファの上で仰向けになり、意識をぼんやりとさせた。



 眠ればまた、あの悪夢を見るかもしれない。さっき考えに考えたこともあって、あのときの記憶は意識せざるを得ない。また夢に見るようになるのかもしれない。



 だけど、浩都が答えを出すまでは。あいつがこれを機に少しでも強くなってくれるのなら、構わない。無駄な苦しみではない。少なくとも、僕はそう思いたい。



 だから、これからの苦しみも、過去の記憶が呼び出す悪夢も、何もかも受け入れていてやろう。やっぱりこれも、僕の身勝手でしかないのだろうけれど、それでも。



 あいつが折れない限り、僕も折れないでいよう。



 あいつが強くなるために。僕が強く在るために。













     end
挿話1 挿話2
BACK NOVELTOP SITETOP