8.ことのはじまり

 昨日の夜、久々に父ちゃんと顔を合わせた。漂にーちゃんの家に住み着いてから、今日で4日目。それなのに、妙に久しぶりな気がしてしまった。父ちゃんの顔が遠くに見えた、っていう感じかもしれない。
 おかえりーって言うと、父ちゃんはおどろいた顔をしながらも、すぐ後にはゆるく笑ってただいまって返してくれた――あいかわらずっていうか、疲れきった顔をしていた。大丈夫なのかなーと心配になる。
 今までも、父ちゃんはおれを生活させるためにすごく苦労してるんだなっていうのを、どうしようもなく感じてきてしまってた。ただ、今まではそれを毎日のように見てて、慣れていたっていうのがあったけど。漂にーちゃんちで暮らすようになって、あっという間にそういう慣れがなくなっていってるかもしれない――父ちゃんは、本当に疲れている。
 むりしないでって言ったら、ごめんなあって返された。どうしてあやまられたのかわからなくて、どうしたのって聞いたら、結局父ちゃんひとりじゃお前にいい暮らしをさせてやれないんだなあ、って。でもって、どうしてそんなこと言うのって言ったら、父ちゃんはふがいない人間だからなあって返されて。そして抱きよせられた。
 納得なんかできない。ふがいないなんて、なんでそんなこと言うのってものすごく反発したかった。けれど、疲れた姿でも、抱きしめてきた手には力がこもってて、苦しいくらいで。ああ、おれはこの人に大事にされてるんだっていうのがすごく伝わってきて。だからこそ、父ちゃんが自分のことを情けないみたいに言うのがすごくいやで、反発したいのに、できない。今言ったら、たぶんこの人は傷つくだろうから。
 なにかがこみ上げてきたと思ったら、おれは泣き出してしまっていた。気づいた父ちゃんはうろたえて、また自分がなにか悪いことをしてしまったのかみたいなことを言う。なんでこの人は自分が悪いってばっかり思うんだろう――と思った時点で、おれは答えを思い出した。
 おれのせいだ。
 この人が苦労するのは、おれを生活させていくためだ。ずっと前からそうだった。なのに、今になって忘れるなんて。
 ごめんなさいって言って、うろたえる父ちゃんを無視して、おれは部屋にこもって寝てしまった。
 それが、昨日の夜のできごとだった。






 で、今日。朝起きると、もう父ちゃんは出かけた後で、誰もいなかった。
 カーテンはあいかわらず全部しまってて、朝だと気づくのはちょっと難しいけれど、とにかく今日は気づけた。
 リビングのほうでカーテン開けてからテーブルを見ると、ぽつんとコンビニのサンドイッチ、それにパック牛乳が置いてあった。父ちゃんが買ってきておいてくれたんだろう。観沙ねーちゃんの朝ごはんにくらべるとやっぱり不健康な感じはするけれど、それでも父ちゃんは精一杯おれにやさしくしようとしている――愛されている、と思ってしまう。
 またちょっと泣きそうになりながら、おれはたまごサンドをかじりはじめた。
 そうしながらも、とりあえずほうりすててあった新聞をちょっとだけながめる。天気予報とテレビ欄しかおれは見ないけど。とくに天気予報は、今はけっこう気になるところ。
 今日はくもりで、降水確率はそんなに高くないらしい。窓の外に目をやったら、霧がかかっていて景色がよく見えなかった。とりあえず雨はふっていないらしいけれど――今日は何かあるのかな。とりあえず、昨日のおねえちゃんにもう1回会わなくちゃ、と思った。
 食べ終わって、歯磨きして、顔洗って。そしたら開けたカーテンをまたしめなおして、おれは家を出た。いってきますは言わなかった。いってらっしゃいって返してくれる人がいなかったから。











 ******











 昨日が雨で、今日が曇り。霧が漂って景色が白い。空気も湿っている感じがする。そのせいか、自分の心まで湿って落ち込んでいるような気がしてしまう。
 今日も暇だった。クラスメイトと他愛ないおしゃべりをする気にもなれないし。昨日の雨の影響でまた屋上には行けないし。授業なんかは上の空だし。
 結局、考えているのは名前も知らないあの子供のことばかりだった。どうしてあたしはあの子が嫌いなんだろう、どうしたらあの子に会えるんだろう、ちゃんとお話しないとなあ、とか。気がつけば嫌いなはずの彼のことばかり考えている。
 だからこの日は気がつけば放課後、という感じになっていた。どれだけ時間が流れたのか、あたし自身いったい何をしていたのかすら、よくわからないまま。誰も何も言ってこないから、とりあえず問題行動はなかったんだろう。
「宮月ー」
 廊下をふらふらと歩いていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、その先にはまたナオキがいた。よく飽きないな、と思ってしまう。あたしの何がいいのかわからない。もっとも、訊いたことなんてないけれど。あたしは別にこいつには興味はないから。付き合いだけなら長いはずなのに、あたしの興味はナオキよりも、漂くんとあの子に向いていた。
「何?」
「またお前んち行っていい? いや、昨日気持ちよかったし」
 にやにやしながらそんなことを言う。あたしは顔をしかめてしまった――昨日自体は、別にあたしはなんとも思わなかったけれど。今思い出して、冷静に考え直してみると、あの行為は気持ちがいいものだとはとても思えなかった。
「最初っからそんな目的で来られても困るわ」
「つれねぇなー。俺はお前のことすんげー思ってるのによー」
 どういう思い方よ、と言いたくなったけれど。そうしたら余計に話がこんがらがって逃げられなくなる。あたしはかわりにため息をついた。
「ひとりにして」
 きっぱりと言う。口には出さなかったけど、そうしないと許さないという意志をこめた。ナオキの表情がむっとしたものになったけど、何も言われなかった。
「わーかった。じゃーな」
 不満そうな声だった。けれどもナオキは歩き去っていく。いかにも「しぶしぶ了解した」なんていわんばかりに。
 あたしはもう1回息をついた。今度は体の中のもやを少しだけど吐き出すような感じで。1人になれたことに少し安心して。






 朝の霧は、昼半ばになってほとんど晴れていた。空は曇ったままで、明るくはないけれど。それでも気分は少し晴れたかもしれない。霧といっしょに。
 昨日の公園にもう一度足を向けた。そこ以外に、あの子に会うあてがない。
 ベンチもブランコもジャングルジムもすべり台も、たくさんの露をまとっている。
 どこかに腰を下ろすこともできないので、あたしは公園の中心でぼんやりと突っ立っていることしかできなかった。あの子はここにいつ来るのだろう。もしかしたら今日は来ないかもしれない。来るかどうかもわからない子供を待ち続けて、あたしはその場を動かなかった。
 どうしても、あの子とは話をしなきゃいけなかったから。
 時間の経過がわからない。曇っているから、空の色の変化は感じられない。どれくらい待っているのか、自分でもわからない。ただ、感覚としてはものすごく長い気がした。たぶん、1分ですら長く感じるくらいに。気が遠くなるかもしれないくらいに。



 だけど、待っていてよかったと思った。無駄にならなくて、ほっとした。






 あの子がやってきた。











 ******











 朝、霧が出てて。空気もなんだかしめってる。
 だからなのか、気持ちまでしめってる気がする。ひょっとしたら、今日は漂にーちゃんと観沙ねーちゃんの顔を見ていないから、よけいにそう感じるのかもしれない。
 一日中、やる気が出なかった。なんだかわかんないけど、体がだるかった。ちょっとしたことで疲れた気がする。学校までの道を歩くだけで。そのほかいろいろ何をしても。こういう天気のせいなのか。それとも昨日がすっきりしなかったせいなのか――あのおねえちゃんはどうしているんだろう。会えたらいいけど。
 放課後、おれはさっさと学校を出た。自分でもめずらしいって後で思ったけど、宮月先生のところには行かなかった。
 校門を出て、ある場所をめざしておれはより道せずに歩いた。って言っても、気だるいのは変わらないので、のろのろとした歩き方だったけれど。
 どうしてそうしたのかって聞かれると、なんとなくって答えると思う。ただ、その「なんとなく」は、ただそういう気分だったっていうんじゃなくて、もしかすると、無意識で「予感」っていうのがあったのかもしれない。
 おれんちと漂にーちゃんちがいっしょにあるマンションを通り過ぎて、さらにおれは歩いた――ふつうの人から見ると、なんだお前より道してんじゃんって言われそうな気がしたけれど。
 歩いて歩いて、たどりついたのは昨日の公園。公園なんだけど、ここで誰かが遊んでるのをおれは見たことがない。人が来ない、さびしい公園――なんだけど、今日は先に誰かが来ていた。
 誰かっていうか、その人は昨日のおねえちゃんだったわけなんだけど。



「こんにちは」
 先に向こうが声をかけてきた。様子からして、この人は最初からおれを待っていたんだなーと思う。
「こんにちはー」
 返事しながら、とぼとぼと近づいた。だんだん向こうの顔がはっきりと見えてくる――なんとなく昨日と同じ感じ。むりして笑顔を作ってるような感じがした。
 そばまで歩いて、そのむりした顔を見上げて。おれは口を開いた。
「おねーちゃん、おれのこときらい?」
 こういうの、単刀直入って言うんだっけ。聞き方としてはすごくまずいかもしれない。やっぱりっていうのか、おねえちゃんは顔をしかめた。
「……変なこと聞いて、ごめんなさい。……けど」
「いいの。……そういう風に見られても、しょうがないものね」
 少し息をはいて、またすぐ笑顔を作って、おねえちゃんはそう言った。
「……本当に嫌いだったら、会って、あらためて話そうなんて思わないかもしれない。……けど、どうなのかな。まだちょっと、わかんない」
 おねえちゃんはそう言いながら、どこか迷っているみたいだった。わからないから、おれをさがしたってことなのかな。だとしたら、おれもそうだった。このおねえちゃんのことについてもわからないところはあるけれど、このおねえちゃんにたいしてのおれの気持ちっていうのを、おれは自分でわかってないところがある気がした――そういえば。
「おねーちゃん、名前なんていうの?」
 会うの3回目で、今の今まで聞くのをわすれてた。
「……そういえば言ってなかったわね。あたし宮月草那。君は?」
「あ……。おれ、さくらいこーとって言うの。宮月って……学校の保健室の先生もおんなじ名字ー」



 ちょっとびっくりしつつ、おれも自分の名前を言った。そこまではよかったと思う。



 けれど、そのあとの言葉のすぐ後に、宮月おねーちゃんから笑顔が消えた。






 その時はなにがなんだか、おれはぜんぜんわからなかった。











 ******











 何かが、ぴきりと。どこから聞こえてきたのかわからないけれど、ひび割れる音がした。
 その音といっしょに、どうしてこの子――浩都くんに対して嫌悪感が沸きあがってしまうのか、その理由を、あたしは唐突に理解してしまった。順序立てて考えたわけじゃない。きっかけはあったけれど、そこからいろいろと考えて、結論として出したわけでもない。



 本当に、唐突に――さらなる嫌悪感とともに、あたしは理解を得たのだ。



 母さんがこの子の相手をしている間、あたしは寂しくてたまらない。それだけじゃなく、漂くんと会った時に、あたしは彼と一緒にいたいって思ったのに、そう思った時には先にもう彼が一緒にいて、独り占めしていた。



 この子は、あたしが欲しくて欲しくてたまらないものを、先に奪って、独り占めしている子供なのだと。そう思ってしまった途端、あたしは自分を制御することが出来なくなった。
















 タガが、はずれた。






 そこからの行動は、自分でもよくわからない。覚えているのは、行動のきっかけと結果だけ。過程が飛んでいる。










 あたしは不意をついて浩都くんの右の手首を掴んだ。
 驚きと痛みの混じった悲鳴のような声が漏れ聞こえたような気がしたけれど、あたしの記憶にはろくに留まっていない。






 多分、彼は大人しくなんて引っ張られてくれなくて、暴れていたかもしれないけれど。
 あたしはまったく構わずに、彼を引っ張ってどこかへ行こうとしていた。




















 そして。
 気がついたら、あたしは浩都くんを連れて、知らない場所に来ていた。













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