6.わけわかんない

 気まずい雰囲気が漂っていた。
 浩都は僕の後ろに隠れつつ、宮月に対して警戒心の篭もった視線を返している。それは、先に怪訝そうな視線を向けられたほうとしては、ある意味当たり前の行動なのかもしれない。
 わからないのは、宮月だった。
 浩都が誰って訊いてきたことから、2人は多分初対面なのだろう。しかしもしそうでないにしても、今の態度はおかしいというか、何かがあるとしか思えなかった。
「どうしたんだよ、いきなり」
 彼女が浩都を睨みつけるような視線を変えず、そしてそのまま何も言わないので、こっちから話を訊くしかなかった。
「その子、誰?」
 開かれた口から出た言葉の色は、明らかに嫌悪の色が混じっている。どうしてそこまで。けれど、説明するのが先だろう。
「この子、父親がちょっと遅くまで帰ってこれないっていうから、うちで預かってるんだけど」
 こんな感じでいいか、と浩都を見やった。浩都はまだ不安そうな顔をしていたが、視線に気づくと頷いてくれた。
 しかし、宮月はますます表情を歪ませた。納得行かないとは言うまでもなく、その雰囲気が象徴している。
「何なの? 何が気に入らないんだ?」
 理由がさっぱりわからない。浩都が気に入らないというのなら、理由をはっきりと示してもらわないことには――僕は、許せない。けれど、まだ責めることもできない。気に入らないにしたって、当人がひどく苦しそうでもあるから。
 彼女はそれでもしばらく浩都を睨むことをやめなかったけれど、突然、少し顔を俯かせて首を振った。



「……ごめん、なさい。……帰るね。今日は、ありがと」



「あ、ちょっと……!」
 制止も聞かず、彼女は部屋に放り出した自分の鞄を取って、足早に玄関から出て行ってしまった。その間際に絞り出されたような声は、やっぱり苦しそうだった。
 僕も浩都も、呆然とその場に立ち尽くしていた。彼女がいったいなんなのか、わからなくて。
「……あのおねえちゃん、だれ?」
 ややあって、浩都が口を開いた。口調はまだぽかんとしている。
「……学校の知り合い、なんだけど」
 僕もまだ、この状況を精神的には受け入れることができないでいるみたいだった。そう返すのがやっとだったから。
「……おれ、何か悪いことしたのかな」
 しゅんとした表情でのつぶやきに、僕は首を振った。
「初対面なんだろ。気にするなってのも無理かもしれないけど、でも悪いこととかそんなのはないと思うよ。……本人に訊いてみるから」
 慰めるように声をかけた。浩都は力なく頷いた――と、その時。






 きぃん。






 また、あの音がした――いきなり頭痛が来て、反射的に両手で頭を抱えた。慌てて顔を上げた浩都の姿が見えた。
「にーちゃんっ!? 大丈夫!?」
 大丈夫だ、と言いたい。けれど、声が出なかった。その頭痛は、これまでで一番ひどいものだった。頭が痛い。割れる――立っていられない。浩都の悲鳴がどんどん大きくなっていくのがわかる。けれど、なんて言っているのか聞き取れない。






 僕は、倒れた。











 ******











 なんでこんなに嫌な気分になったのか、自分でわからなかった。
 ただ、漂くんの後ろにいた子供を見た時、あたしの中でいきなり何か嫌な感情が爆発してしまったことだけは確かで。
 今は、そんな自分が嫌で、2人の前にいたくなくて、出て行ってしまったけれど――多分、ダメだ。あたしは次にあの子供に会っても、ああなってしまうだろう。わかりたくないのに、わかってしまっていること。
 自己嫌悪していた。あたしは嫌なやつだ。次に漂くんに会ったら、謝らないといけない――けれど、それで無かったことにはならない。あの男の子をどうして嫌悪してしまうのか。それがわからないと、意味がない気がする。けれど見た瞬間に嫌悪してしまうようなあたしに、ちゃんと原因を突き止めることができるんだろうか。
 ああ、まただ。考えれば考えるほど、嫌悪とか不安とか、そういうマイナス感情が深まっていく状態になり、あたしは首を振った。本当は考えないといけないかもしれないことでも、マイナス思考ばかりで考えるのは嫌だった。気持ち、切り替えていかなきゃ。
 漂くんちのマンションとあたしんちのマンションは、本当にそんなに距離は離れてなくて。とぼとぼのろのろと歩いていても、あまり時間はかからなかった。建物の入り口の前でいったん足を止めて、あたしは上を見上げた。今更ながら高いなあってぼんやりと思ってから、あたしは建物の中に入った。
 エレベーターに乗って、7階まで上がる。そこで降りて、まっすぐ自分の家、715号室に向かっていったら、ドアの前で誰かがもたれて座り込んでいた。そいつはあたしの姿を見つけると、当たり前のようにいようと手を上げた。
「遅かったじゃねーか。学校捜しても居ないし、家も鍵かかってるし。どうしたんだ?」
「……別に。遅くなる時だってあるわよ。ていうかナオキ、なんでアンタがここにいるのよ」
「ん? 待ってたらそのうち戻ってくるかなーって。お前携帯持ってないからさー、連絡つかねーじゃん」
 へらへらと言う。あたしなんか捜してないで、さっさと家に帰ればいいのに。別にあたしはナオキに用なんてないんだから。
「とりあえず、そこ退いてくれない? 疲れてるんだけど」
「俺だって疲れてんだよ。つーわけで、入れてもらっていい?」
 あっさりとそんな風に返される。帰れと言いかけて、でも思いとどまった。今の状態で1人でいたら、それこそあたしはどうにかなってしまうんじゃないか。そう思った次には、こんな男でもいないよりはマシかな、と思ったりした――ましてこの日は、母さん、遅くなるって朝に言っていたことを思い出した。
「……わかったから、退いて」
「へいへい」
 結局、ナオキを家に入れることになった。鍵を開けて家に入ると、ナオキは後ろからのらりくらりとついてくる――





 部屋に入って鞄を放り出したところで、いきなりベッドに押し倒された。






「……何すんの」
 仰向けで両手の自由を奪われた状態で、一言反論だけしてみた――別に嫌じゃないっていうか、こういうことは初めてじゃない。



「何って、いつもの」



 軽くそれだけを言って、ナオキはあたしの体に覆いかぶさってきた。抵抗どころか、身動きもできない。





 ナオキはあたしの体のいろんなところを好きなように触る。好きなようにまさぐる。



 抵抗できない、ってさっきは言ったけど。本当はそもそも抵抗する気もなかった。






 少しでも気が紛れるならなんでもいいやみたいな投げやりな気分混じりで、時折喘ぎ声をあげながら、あたしはナオキの行為に身を委ねていた。











 ******











 気がつくと、自分の部屋のベッドの上だった。
 倒れた、というのはわかる。しかし、そこからどのくらい時間が経ったのだろうか。
「大丈夫?」
 右側から、声がかかる。姉さんだった。振り向こうとして、ずきんっと頭痛を感じて顔をしかめた。
「……駄目っぽい」
 今、表情を強張らせてしまったのが、傍で見ていた姉さんにわからないわけがないだろう。素直にそう言う他はなかった。
「ご飯、どうしようかしら」
「……買ってあるの?」
 多分姉さんのことだから、3人分買ってあるんだろうけれど、僕に食欲はなかった。動こうとするだけでも頭が痛くて、それどころじゃない。姉さんは頷いて、困ったという表情になった。そりゃそうだ。1人分余るんだから。
「……後で食べるから、作ってて。……ごめん」
 痛くてたまらないけれど、多分、長くは続かないだろうと思った。なんとなくではあるが、痛み出す理由には見当がつきはじめている。多分、どうしてかはわからないけれど――宮月のマイナス感情に反応して頭痛が起こる、と考えるのが一番自然な気がした。本当は全然別の原因なのかもしれないけど、今はそう考えるのが一番納得がいく。
 僕と宮月はやっぱり何かしらのつながりがあるのだということを、痛感させられる。それが今後、どういう風に生活に影響してくるかはわからないけれど。
「……無理はしないのよ? 何だったら、明日は学校休みなさい」
 心配そうな声でそれだけを告げて、姉さんは立ち上がった――ようやく顔が見えた。そうして部屋を去ろうとした姉さんの背に、訊ねる。
「……今、何時?」
 頭を動かせない。部屋の中には時計がちゃんとあるけれど、そっちをろくに見れやしない。
「……7時、ね。……ついさっき帰ってきたらあなたが倒れてて、浩都君は泣きそうな顔してるんだもの、びっくりしたわ」
「……ごめん」
「謝ることなんて何もないじゃないの。それじゃ、ゆっくりしてなさいね」
 つかつかという足音が遠ざかっていくのと入れ替わりに、今度はとたとたとした足音が近づいてきた。
「漂にーちゃん……」
 浩都の声だった。あまりの出来事だったのか、その声にいつもの元気さはなかった。そういえばこいつの目の前で倒れたんだった、僕は。
「……ごめん」
 それしか言葉が出てこない。謝ることしか、今の僕にはできなかった。
「……だいじょーぶ?」
 声が近くなった。浩都本人がベッドに近づいてきたのだろう。けれど、振り向くことすらままならない。そんな自分が、今になってすごく情けないもののように思えた。
「……ちょっと、待ってて……まだ、痛いんだ」
 嘘もつけない。痛いと素直に告げる。すぐには返事は返ってこなかった。しばらく部屋の中は静かになる。



「……おれの、せいかな」



 ぼそりと、子供にしてはひどく自虐的な響きのつぶやきが聞こえた。顔や姿など見なくても、聞いただけでこっちが悲しくなるような言葉と声だった。



「……なんで」
「……だって、あのおねえちゃん、おれ見ていやな顔したし。おれ、邪魔したのかもしれないし」
 浩都は答えた――邪魔した、というのはあるのかもしれない。けれど、そのことと僕が頭痛で倒れたことが関係あると、浩都が気づいているとは思えない。第一、浩都を見て宮月が嫌な顔をしたというのは一方的な嫌悪で、浩都はむしろ被害者なのに。
「……気にすんな」
「だって……」



「いいから。子供は子供らしくわがまま言ってろ」



 頭痛を圧して、わざと憎まれ口を叩く感じで声を出してみた。
「あー、にーちゃんひどいし!! 子供とか言うなー!!」
 途端に怒ったような声で浩都はわめきだした。ただの一言で、あっさりいつもの浩都に戻る。お手軽便利、なんて今思うのは不謹慎だろうか。
「子供だろ。まだ小学生なのに意地なんか張るな。だいたい僕だってまだ子供なのに。自分よりちっさいやつが実際子供じゃないなんて言われたら、普通にムカつくし」
 半分くらい本音だった。僕らはまだまだ未成熟な子供だ。早く大人になりたいと背伸びしたくなることもあるけれど、足りないものがたくさんあるってことを自覚して、ちゃんとそれらを少しずつ身につけていかなくちゃならない。
 それは楽なことじゃないだろう。浩都にしてみれば、宮月のことは苦難の1つとなるだろう。だけどそういう苦難は乗り越えられないものじゃないと思う。第一、すれ違って分かり合えないまま。宮月にとっては、一方的に浩都に嫌悪を向けっぱなしっていうのは、どう考えても良くないことだ。個人的なことを言えば、見ているほうも気分が悪くなる。
 これからもそう簡単にはいかないだろうから、いろいろ苦労はしそうだけれど。
 ただ、特に浩都のような子供は、わがままであるべきだと思った。ただでさえ力がないのだから、いろんなことをどんどん体験していかなくちゃならない――それを、何かの理由で怖れさせてしまうことだけは、あってはならない。
「……子供なんだよ。そっちは。……だから、わがままでいていいんだ。自分が一番だって、思ってていいんだよ。……嫌悪されるのが嫌だったら、どうして嫌なんだ、俺は悪くないって。向こうに言えばいい」
 そこまで喋り終えてから、ふうっと息を吐いた。その時ふと気がついたけれど、またいつのまにか頭痛は引いていた――宮月は落ち着いただろうか。結局それはわからないけれど、頭痛が引いたのをいいことに、僕は体を起こした。
 ぱっと見上げたような浩都の顔が、目に飛び込んできた。
「にーちゃん、起きて大丈夫なのっ?」
「なんとか、ね」
 答えて、ゆるく微笑みを作った。それで本当に安心したのか表情が緩み、浩都は無遠慮に跳んで抱きついてきた。



「わ、ちょっ、苦し……ッ!!」






「ばかー。心配させんなー!!」






 跳びつかれた勢いでまたベッドの上に体が倒れる。体の上に乗っかった浩都は、僕を見下ろして、無邪気に笑っていた。もう、落ち込んだ様子はないと見ていいのだろうか。安心からか、思わず僕のほうも笑みがこぼれた。










 結局、今日の夜も。終わりはいつもどおりに訪れた。
 ご飯もちゃんと食べて、浩都を姉さんの部屋にやって、普通に眠りについたのだった。













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