「漂にーちゃあーん、起きてるー?」
 声とともにそろりとドアが開いて、そこからひょこりと顔が覗いた。うーと呻きながらころんと頭を転がして、どうにかその顔のある方向に視線を向ける。
 とりあえず起きている――浩都が学校から帰ってきた時の玄関のドアの音で。それだけで起きてしまうほど眠りは浅かったらしい。それどころかついさっきまでの話なのに、本当に眠れていたかどうかの記憶も曖昧だった。
 視線が合ったことで起きてると判断したからか、浩都が近づいてきた。
「……今日、ひとり?」
「うん。風邪ひーてる人いたら普通は連れてこないと思うよ?」
 言いながら、浩都はベッドの縁に前傾で寄りかかるようにして、膝をついて座り込んだ。それでも体勢の差から僕は浩都を見上げる格好になる――随分大きくなったなあと思うのは多分、今の体勢の差だけじゃないような気もする。
 この家に拾ってきてからもうすぐ一年が経つ。なんだかんだで長いこと世話してるなあ(とは言っても厳密にはほとんど姉さんが担当しているけれど)と思いつつ、その一年で浩都の印象もいくらか変わったように思う。
 さっき、ひとりなのかと聞いたけれど。ここ最近ウチに帰ってくる時に、浩都は時々女の子をひとり連れてくることがある。毎日というわけでもないどころか実際は浩都ひとりで帰ってくることのほうが多いけれど、確か千原里柚というその子と、たまに見た様子ではとても仲良くしているようで――どこかの気弱なヤロウに見習って欲しいぐらいだとも思う。
「熱、下がんないの? 顔、まっかっかのまんまだよ」
 横目で言ってきた浩都のその言葉で、朝以降から体温を計っていないことを思い出した。もっとも今日はずっとベッドから出てこなかったから、当たり前の話だが。
「……ごめん、ちょっと体温計取ってきて。あと薬と水も」
「え、いいけど……にーちゃん、昼、食べたの? 観沙ねーちゃん、パックのおかゆ用意してたって言ってたけど」
「食べてない……いや、動けないからずっと寝てた」
「えー? あーもー、じゃあおかゆも作ってくるから、先それ食べなー」
 そう言って小走りに部屋を出て行く浩都の背中を見て、立場の逆転というのか、こういう状況は随分珍しいなと思い、僕は溜息をついた――そのタイミングで。


 ピン、ポーーーン……。


 インターホンが鳴る。はいー、と浩都が受話器で応じる声が聞こえた。
「あ、草那おねーちゃん? 入っていいよ、カギ開いてるよー」
 続いて、ドアの開く音、お邪魔しまーすという宮月の声。彼女以外の声はせず、ということは宮月はひとりでウチに来たのだろうか。
「あれ、浩都くん何やってんの?」
「おかゆつくってんの。パックだけど。漂にーちゃん、今動けないからー」
「あららー……相当ひどいのね、じゃあ。様子見に行っていい?」
「いいよー。あ、とりあえず体温計だけ持ってってあげてー」
 そこで会話が途切れる――台所でのものだろうに、なんでこうもはっきり聞こえるんだと思ってドアのほうを見たら、少しだけ開きっぱなしになっていた。すぐにドアは大開きになり、宮月が部屋に入ってきた。
「漂くんこんにちはー……うわぁ、顔真っ赤!」
「……あんまり近づいたら、うつるよー……?」
 言いながら、ベッドの背もたれに頼りつつ上半身を起こす。そこに差し出された体温計を受け取り、服の内側の脇に挟む。相変わらず身体全体が重くて、その動作だけでも疲労を感じ、計る準備が終わったあとは両腕もだらりと下ろしてぐったりして黙り込んでいた。
 数分して計測完了の音が鳴り、重い身体をのろのろ動かして脇から取り出してみたら。
「……三十八度、六分……」
 朝よりは低かったが、万全には程遠い数字だったので、がっくりと来てしまった。
「あー……ホント、思ったよりひどいのね……もう一日くらい休まないと駄目そうじゃない?」
「まだわかんない……てか、あんまり長いこと休めないし」
「そんなこと言わなくていいのよ? まだ日はあるんだからしっかり休んで治せ、って白共くん言ってたよ」
「それだけ? 他に何か言ってなかった?」
 特に何も、と返ってきたところで会話を切り、僕が息をついたすぐ後。
「あー、草那ねーちゃん、閉めんなよー! せっかく開けといたのにー!」
「あ、ごめん、ちょっと待って!」
 浩都のわめき声と、それに慌てる宮月の図。あぁ、開けっぱなしだったのは部屋に入りやすくするためかと今更ながら納得した。すぐにドアが開いて、トレイにおかゆと薬と水を乗せて持っている浩都が部屋に入ってきた。
「あついよー。十分冷ましたと思うけど、にーちゃん猫舌だからどうかなー?」
「言うな、それ」
 そんなやりとりをしながら、僕はおかゆに手を伸ばす――碗がものすごく熱かったので、落とさないようにするだけで随分と気を使う。冷ましたとは言われていても湯気がもうもうと立ち昇っていてまだまだ熱そうだったので、しばらく息を吹きかけてさらに冷ますことに専念していた。横から何か小さな笑い声の二重奏が聞こえてきてたけれど、それは気にしないことにした。
「あっつっ……!」
 それでも一口目を運んだ瞬間、反射的にそう洩らしてしまい、慌ててごくんと飲み込んだら、喉から胸まで通り過ぎてく熱さに身悶える羽目になってしまい――笑い声が大きくなったのを聞きたくなくて、僕はうなだれてしまった。
「漂くん、かわいい」
「黙れ、っていうか黙ってて学校で言わないでほんと頼むっ」
「にーちゃーん、危ないよーおかゆ落とすよー?」
 上目遣いでにこにこしながら言った宮月に慌ててしまい、浩都に突っ込まれ――なんだこの連携羞恥プレイ。また身体の中がかあっと熱くなってくるのを感じてしまい、汗が噴き出してきて気持ち悪かった。そういう体質なのか、僕は?




 結局食べるんじゃなくて熱さも構わず無理矢理飲み込む形でおかゆを片付け、薬を飲んで、再び落ち着けるころには精神的にもぐったりしてしまっていた。
「ごめんねえ。からかうつもりはなかったんだけどなー」
 言葉とは裏腹、宮月はくすくすと笑い声を洩らしていた。完全に遊ばれた気がして悔しいが、もうむきになる気力も残っていなかった。なったらなったで彼女は余計に面白がりそうな気がしたから、下手に何か言ったりしないほうがいいのかもしれないとも思った。
「草那ねーちゃん、いっつもそうやって漂にーちゃんで遊んでんの?」
「まっさかぁ。いつもだったら……そうねえ、漂くんもっと倒れてるかも」
「……案外、病弱ってやつなのね、にーちゃん」
 くそったれものすごい突っ込みたいと思ってしまう会話だったが、ここも我慢した。これ以上付き合っていると病気の治りが遅くなる気がしてしまう。頭の先まですっぽりと布団を被って、聞かない意思を通すことにした……のに。
「漂くん……どうしてそうかわいいことばっかりしてくれるのかしら」
「布団生物ー。ふとんせーぶつー!」
 布団ごとぎゅうっと抱きつかれて息苦しくなった。思い切り被りすぎて息をするスペースがなくなってしまっていたせいで、またしても暴れる羽目になってしまった。
 どうすればいいんだ――もがきながら僕は途方にくれた。こうして三人集まっても、昔は力関係的なものでは対等だったはずなのに、いつの間にか僕が一番下にいるような気がする。今なんかまさにそうじゃないか。
 かといってそれがいいことか悪いことかと聞かれれば、多分、少なくとも悪いことなんかではないだろうと答えてしまうのだろうけれど――結局こういう状況に陥っているのは、僕がある意味で馬鹿だからなのかと思う。どうしても二人を責めることができない。少なくとも二人がここにいる以前みたいな、誰も傍にいなくて暇で暇でしょうがない時間に比べれば、いいことであるはずだと、なぜかそう思う僕がいるのも事実で。
 じたばたしてなんとか布団の中に呼吸できるスペースをつくり、僕はそこに思いっきり溜息を吹き込んだ。何より二人を本気では憎めない自分に対する呆れをそこに込めて。