目の前に、いつもの朝ごはん。
 半熟のとろみ加減がいかにも美味しそうな目玉焼き、水洗いして並べただけの新鮮そうな生野菜のサラダ、チーズが上手い具合にとろけて濃厚そうなトースト。
 見た目だけでも明らかに美味しそうだとわかるそれらに、けれどまったく手を伸ばせる気がしなかった――両方の手が鉛を仕込まれたように重くて、上がらない。トーストの匂いをかいで美味しそうだと認識できるほど、意識に余裕を持てない。頭は真正面を見据えることができず、重みに任せてぐったりと俯いてしまっている。
 全身がひどく熱っぽく、それでいて気だるくて――誤魔化しきるのが絶対無理だと即で諦めざるを得ないほど、体調が悪くなっていた。そのせいで、向けられる視線は明らかに僕を心配しているようなそれで、刺さるように痛かった。
「……今日は休みなさい。相当酷そうね」
 心配そうながらも反論を許さない声が姉さんから向けられて、僕は頷くしかなかった。
「急だよね、漂にーちゃん。昨日まで全然フツーだったじゃん」
 浩都の声が横から聞こえてきたが、視線を向ける余裕すらなく僕はぐったりしていた。言うとおり、昨日までは普通だったのに今日になっていきなり――原因はなんとなくわかってはいたが、考えると自分が情けなくなって溜息が出てくるだけだった。
 それより今考えるのはそんなことじゃなくて――ほんの少しだけ視線を上げ、目の前の朝ごはんを睨みつけるように視界に収める。出された以上は食べてしまいたいけれど、相変わらず手が重かった。今これを動かすのは相当な意思力ってやつが要りそうで、でも動かして食べなきゃ、捨てるのはもったいない――繰り返し繰り返しそう言い聞かせて、やっと、ゆっくりゆっくりと手が動き出した。
 無理して食べないでもいいのよと声が聞こえたが、強く首を振って――なぜかその時だけは頭の動きが軽かった――ぎこちない箸使いで、僕は目玉焼きをつつき始めた。いつもならつぶさずに食べる黄身を今日はつぶしてしまい、皿の上にどろりと広がるのに思わず顔をゆがめながらも、落とさないように慎重に、重さに逆らって必死に、僕は目玉焼きを口に運んでいた。いつもなら塩味が美味しいのに、今日は本当にまったく味を感じることができず、まずいものを食べているような気分になってしまった。
 そうなってまでなんで朝ごはんを食べるだけでこんなに必死にならなきゃいけないんだと、自分の体調の悪さを早速恨む羽目になった――あくまでも恨むのは自分に向けるようにと言い聞かして。




 結局、朝ごはんを食べている間に姉さんも浩都も学校へと出かけていってしまい、僕は家の中にひとり取り残された。
 身体が重いのは変わらないが、ごはんの後の食器類を放置しているわけにはいかなかったので、とりあえず全部流し台に持っていって水に浸けておいた。それから姉さんが用意してくれた薬を飲み、下痢気味だったのでトイレにしばらくこもり、その後でやっと熱を測ったら、


 三十九度、三分。


 基準はよくわからないがこれはかなりの高熱なんじゃないだろうか――真っ先にそんな思いがよぎって、ソファの上で僕はげんなりしてしまった。少なくとも大丈夫だと胸を言って隠し通してしまえるような熱でないことくらいは僕でも思う。続いて、なんにもできないな今日、という言葉の代わりに大きく溜息をついた。
 体温計を片付けた後、倒れないように、これ以上気分を悪くしないようにと慎重になりながら、僕はふらふらと自分の部屋に向かう。さすがにもう動きたくない、早く寝転びたい、それしか考えていなかった。
 やっとの思いでベッドに倒れこみ、仰向けになって布団を被り、深呼吸を繰り返してまずは心を落ち着かせる。それから、どうしてこんなになったのかと少し考えたが、原因はすぐに思い当たった。ごはんの間にも浩都に指摘されて考えたけれども、どう考えても昨日のゲーセンでのライブもどきがきっかけだとしか思えなかった――正確には学校での打ち合わせの中でそれをやると決めた時であって、ライブそのものではないけれども。
 その提案が出た瞬間、僕はパニック状態になって全身が沸騰したように熱くなったのを感じて――今思えば熱暴走のようなものか、とぼんやり考えて。それでもなんとか僕は提案に頷いて、ライブを決行するところまで思い切って。
 結果としてギャラリーの反応はものすごく良くて、大成功と言っていい結果に終わったけれども、嬉しかった一方で、これまでになく疲れた気がしていて――翌日、コレだ。熱暴走をきっかけに体調が一気にガラガラと崩れてこんな羽目になった。
 結局誰のせいでもなく、僕が情けなかっただけなのだ――ネガティブではあるがそう結論付けたかった。誰かのせいにすることだけは絶対にしたくない。
 だけどそれでも体調不良というのは嫌なもので、気持ち悪すぎて動けず、こうして寝転がったままで時間が過ぎるのを待たなきゃいけない。
 朝は来たばかりだが、すでに僕はひどく疲れていた。朝ごはんを食べに起きてきて、その後こうしてまたベッドに戻ってくるというたったの一往復がとてつもない重労働のようで、今現在、全身には疲労感もあって、それが手伝ってか眠気もないわけではなく――けれど頭痛のせいで眠ることに集中できず、意識は中途半端にぼんやりとしていた。
 弱った、と思った。今、ろくに動けないというのは弱り果てた状況だと言える。それ以外にも、病気になって何もできない動くことすらできないそれはなんて無力で弱いことだろう、とも思う。あるいはこんなところを誰かに見られたら情けないことこの上ないよな、とも思ったりする――誰か、に考えが及んだところで。情けないかもしれないけれど、こういう状態でひとりでいるよりは誰かがいてくれたほうが、少なくとも暇を持て余さなくて済みそうな気がしたり、かといってその誰かにもし病気をうつしてしまったらすっごいヤだなとしょんぼりしたり。
 考え事を、頭の中で次々とめぐらせていく。なんとなく、さいころを振ってすごろくを進めていく感覚に似ているような気がした。どうしてそんなたとえが出てくるのか、出した僕自身よくわかっていないけれど。他にやることもないので、ベッドの上に寝転んでぼんやりしつつ、僕は考え事をころころと転がしていた。




 それにしても、暇だ。
 視線だけを動かして、部屋の中の時計を見たら、短針が十時の近くを指しているのが見えた――まだ朝の十時にもなっていないのか。
 考え事だけだと、時間が過ぎるのは本当に遅くなるらしい。だんだんと頭の中を暇だ退屈だという文字が埋め尽くすようになってきた。落ち込みもしないが、楽しくもない。ただただ本当に暇を実感するばかりだ。考えるのに飽きた、ともこの場合は言うのだろうか。
 それならもう寝てしまおうと思って、目を閉じる。相変わらず頭痛のせいで顔が歪んだりとなかなか集中できなかったけれど、そのうちなんとかなるだろうと思って――思うしかなくて。
 何もできないって本当に嫌だ、と僕は大きく溜息をついた。