「ちーっす」
「ちーす。あれ、宮月、お前、今日ひとり?」
「うん。漂くんは今日は病欠ね。ちょっとお見舞い行こうと思ってるから、矢島くんにも今日は遠慮してもらったの」
「あーりゃー……やーっぱ無茶させすぎたかな。にしてもなんでまた彼氏いねーの? 見舞いくらい一緒に行けばいいじゃん」
「だーめだめ。矢島くん、ただでさえああなのに、漂くんがいると縮んじゃうからねえ」
「なんだそりゃ。変な三角関係だなお前ら」
「さんかく……なのかな、いちおう。そういうそっちは今日は人少ないのね」
「あー、今日はバンドじゃなくてメインの舞台での練習だかんな。ユウとエリは吹奏楽」
 ふうんと頷きながら、あたしは今まで話していた白共くんの顔とは別の方向に視線をやった。その先では、相川くんが楽譜とにらめっこしながらギターを弾いている。今回彼らが持っているのは昔ながらのというのか、いわゆるアコースティックタイプのほうだ。
 ここ第二音楽室は、放課後には軽音楽部の部室になる。部とは言っても、三年の先輩方が早々と受験勉強に移行したせいで、今現在の時点で活動中なのは二年の白共くん、相川くんの二人だけらしい。しかも今年は新入部員がいなかったらしいので、来年は同好会になってるかもしんねえな、と白共くんは苦笑しながら言っていた。
 ちなみにあたしは漂くんが文化祭で歌うことにになったと決まってから、いち野次馬として部に通っているだけで、本当は全然関係のない人間だったりする。けれど白共くんが話し好きなおかげで、野次馬なあたしも特に問題なく打ち解けることができている。そもそも白共くんがそういう性格だからこそ、漂くんはこのメンバーの先頭に立って文化祭で歌をうたうことになったんだ、とも言えるわけで。
「あー、早く本番なんないかなー。楽しみー」
「いや、えらい気楽に言うよなぁ。今日なんか肝心の咲良が病欠だってのによ」
「あはは、でも本人いたらこんなこと言えないでしょー。ぜったい恥ずかしがるもん」
「は、それは確かにな。昨日もすごかったもんなぁ。悪いことした」
「気にしないほうがいいよー? 昨日のは上手くいったんだしさ」
「つーか、俺よりアイツのほうが気にしてそうだなぁ」
「あ、じゃあ漂くんにも言っとく。気にしないでって」
「あー、じゃあついでに伝言頼む。まだ日はあるからしっかり休んで治せって」
「りょうかーい」
「……何のんきなこと言ってんだ、ったく」
 突然ぼそりと聞こえてきた声に、あたしも白共くんも反射的に声のしたほうへ振り向いた。あたしたちの会話のテンションに明らかに合わない、もっと言えば空気がぴしっと凍りつくようなひび割れ音がどこかから聞こえてきそうなほどの、そんな冷たい声だった。
 視線の先、当の相川くんは変わった様子もなく、黙々とギターを弾いている。しかめっつらで、見た目には機嫌が悪そうな風。もっとも、相川くんの場合はいつもそういう風だけど――軽音楽部に最近出入りし始めたばかりのあたしは、彼の笑顔とか楽しそうな様子とか、そういうポジティブな姿をまだ見たことがない。それどころか漂くんを明らかに快く思っていない言葉が彼の口からはよく出てくるので、正直なところ、あたしは相川くんに良い印象を持つことができないでいた。
「何よ。白共くん、気を使ってくれてるんじゃないの」
「あぁ、ダイシは連れてきた張本人だからな。本人が乗り気だったかどうかは知らねーが」
「お前、そればっか言うのやめろよ。いくらなんでもマジ怒るぞ」
「言うよ、いくらでも。ダイシ、お前だけでも十分ボーカルやれんだろ。わざわざ関係ねーヤツ連れてくるこたあなかっただろ」
「やってほしいって思ったからだよ、マジで本気で、すっげぇ本気でよ! ゲン、今更ンなことがわかんねぇってわけじゃねーだろ!」
「で、向こうは仕方なく引き受けた、んだろ? 気にくわねえんだよ、どうせ終わったらハイサヨナラのくせに」
「でもそれまでは全力でやるって、漂くん、言ったんでしょ? 水差すようなこと言わないでよ!」
「全力、ねえ。あっさり風邪で倒れたりする奴の全力が、どれだけのもんだか」
「待てコラ、お前それ言いすぎだぞ! いくら本人いねえからってよ!!」
 あまりの言葉に、白共くんが掴みかかった。同じように怒ってたはずなのに、その光景にあたしはびっくりして固まってしまった――白共くんに相川くん、同じ軽音楽部員として付き合いは長いんだから、こうなることなんて滅多にないんじゃないかと思っていただけに、強烈だったのだ。
 それでも相川くんは抵抗らしい抵抗もなく、冷静そのものだった。こっちがどれだけ怒っているかなんて、まるでどこ吹く風というように。
「もう一回言うぞ。アイツは結局、参加してくれって言われたから参加してるだけだ。それが気に入らねぇ」
「……何が、どう、気に入らないのよ。それを教えなさい。じゃなきゃ納得できない。納得できるわけないでしょ」
 苛立ちを抑えこむように努めたせいか、出た声は低く、ゆっくりとしていた。そうしないと、あたしも相川くんに掴みかかってしまいそうだった。
「宮月、アレだろ。俺らより圧倒的に付き合い長いんだろ、咲良と。わかんねえのかよ」
「……嫌味はいいから。はっきり言いなさい」
 呆れたような溜息をつかれて、なおのこと苛立ちが募る。ただ訊いてるだけなのに、彼はあたしたちを挑発して何が楽しいんだろうか。
「何がどう気に入らないか、だったな……あいつ自身に、何か、やりたいことはねえのかよ、ってことだよ」
 これでもまだわからねえかと続けられて、ちょっと待ってと制する。ひとまず答えが返ってきたから本気で落ち着かなきゃと思って大きく息をつき、それからあたしは考えた。
 漂くん自身に何かやりたいことはないのかという言葉で、何を考えるべきか――あたしは漂くんの今までの行動や言葉を、覚えてる限りで全部思い出してみていた。
 雨に濡れたまま突っ立っていた子供――浩都くんを放っておけないと、自分の家まで連れて保護した。
 同級生の男子に襲われたあたしと浩都くんを助けにきてくれた。
 別の事件である男に捕まったあたしを、その男を叩きのめしてまで助けにきてくれた。
 浩都くんがいじめられてて助けようとして、拒絶されたことに大きくショックを受けていた。
 去年起きたストーカー事件で、被害者としての当事者だった女の子――阿由ちゃんを守ろうとして、彼自身が意識不明の重体までいく大怪我をした。
 他にもいろいろとある漂くんの記憶を全部引っ張り出して、見つめて、考えて――
「……誰かを助けようとするのに、いつも一生懸命で。自分が傷ついても、それでも誰かのことを優先するの。漂くん、そういう人なんだよ」
 静かな声で。苛立ちを抑えているのとは違う静かな声で、あたしは答えた。多分、そういう漂くんがあたしは好きなのだ、とまではさすがに言えなかったけれど。
「誰か、か。結局、誰かがあってなんだよな、アイツは」
 そういう相川くんの声に、さっきまでの嫌味や怒りは感じられなかった。むしろ、どこか憂鬱そうに響いている。それを聞いてか、白共くんの表情も怪訝そうなものに変わっていた。
「もっと、はっきり言おうか」
 相川くんは改めるように言って、ひとつ息をついてから続けた。
「誰かのことばっか優先して、実は自分のこと全然考えてねーだろアイツ。俺、そういうのすっげえ嫌だ」
「……もしかして、お前」
 白共くんが言葉を挟む。続きを言おうとしてためらいかけて、結局すぐに続いた。
「お前なりに心配してたのか、咲良のこと?」
「……心配っつうつもりは無いよ。純粋にムカついてたってのがホントのトコだし……誰かのこと優先しすぎて、できないことまでやろうとするだろ。今回のがいい例じゃねえのか」
「……いや、待ってくれ。今回のはやっぱ、俺が悪かったと思う。ただでさえ無理矢理乗せちまった感があるし」
「それにしたって、お前が駄目そうかななんて顔したから、最終的にあいつのほうが俺らにそんな顔させて申し訳ないって思って引き受けた、そんなトコじゃねーのか」
 いつの間にかまた言い合いになり始めていた。もっとも今度はさっきのような刺々しさは感じられないけれど、これはこれでなんだか痛々しいような気がする。
「……とりあえず、と」
 意図的に大きめに声を出して、あたしは二人に割って入った。視線を集めてから、一旦呼吸を整えて続ける。
「相川くんの言いたいことは、よくわかりました。ていうか、最初からそれを言ってくれたんなら、あたしたちだって怒らなかったと思うけど、それはいいとして……結局、文化祭終わるまでは我慢してあげてとか、直接言うなら終わってからにしてとか……そうね、終わってからならあたしからもお願いするからいくらでも言ってあげてっていうのが、あたしの意見なんだけど」
 たぶん、相川くんがこう言ってたってことをそのまま漂くんに伝えてしまうと、また彼は思い悩んでしまう気がする。今そうなってしまうと、文化祭のステージも台無しになりかねないし、そんなのは見たくない。
「結局、それか……」
「しゃーねえよ、俺もそれがベストだと思う」
 苦笑いを浮かべて肩をすくめる白共くんを見て、
「……わかったよ、ったく……終わってから、ならいいんだな?」
 相川くんはそう言って溜息をつきながらも、同調はしてくれたみたいだった――とあたしが思う最中、相川くんは続けて何かを呟いた。
「……別になぁ、本格的にやってくれんなら、こっちだって歓迎するけどよ」
 えっなんて、と反射的に振り向いたあたしの表情に、苦笑を浮かべてなんでもねーよと返事をしたまではよかったものの――
「おーい、思いっきり聞こえたぞーっと。なんだお前、もしかしてお前も実は咲良のこと結構見込んでたのか?」
 そう訊ねた白共くんの表情が、きらきらというかにやにやというか、とにかくものすごく良い笑顔だったのが妙に強烈に印象に残った。
「……殴んぞテメェ」
「おうっと、勘弁してくれよ〜。なんだよ照れんなよコノヤロウ!」
「うっせぇよ! あーもーうっとうしいからそんな顔すんな!」
 初めて相川くんが声を荒げて、本気で嫌そうな表情を白共くんに向けた。それがツボに入ったとでも言うのか、白共くんは思い切り吹き出して大笑いし始めて、しまいには相川くんに思い切り叩かれていた。火に油、とはこういうことかしら。
 あたしはそんな二人を見て、静かにくすくすと笑っていた。そんなあたしにも相川くんは鋭い睨みを向けてきたけれど、叩かれなかったので気にせずに笑い続けていた。