あなたの父親はどんな人? あなたの母親はどんな人?

 自慢したくなるような、立派な人ですか?

 あるいは、これから語られる話に出てくるような人ですか?



































「お前、部屋は散らかすなっつったろうが!! 邪魔なんだよ!!」
「うるせぇ!! いちいちピーチクパーチク泣いてんじゃねぇよ!!」
「なんだその目は!! 文句あんのか、えぇコラ!?」
 ……なんで殴るの、お父さん。なんで蹴るの、お父さん。痛いよ、痛いよ………。















「あなた、やめて!! それ以上やったら、この子が……!!!」
「うるさい!! お前は黙ってろ!!!」
 ……なんでお母さんまで殴るの。やめてよ、お父さん。痛いよ………。









































 ―――また、夢を見た。子供の頃、まだ私が5歳くらいだった頃の夢だ。
 その頃の記憶と言えば、苦いものしかない。忘れたくて仕方がないほどの嫌な記憶だし、最近まで忘れていた記憶。
 しかし何故か、その記憶は1週間前に夢として蘇り、それから毎夜、見続けるようになってしまった。
 ―――それは、恐怖しか連れて来なかった。





 嫌な夢だったので私は飛び起きたのだろう。目が冴えきっていたし、冷や汗の感触が全身に纏わりついていた。
 時計を見ると午前の5時半。2度寝をしていい時間ではなかった。今寝ようとしてもとても眠れないが。
 とりあえず洗面所に向かい、洗顔の後にタオルで全身の汗を拭く。
 それからはいつもと同じように朝食の支度に取り掛かる。
 本当は時間的にはもう少し遅いのだが、私のサラリーマンとしての1日はこうして始まる。















 歩いて5分。駅のホームで待つ事5分。電車に揺られて30分、駅から歩いて20分。合計1時間で、私は勤め先の会社に辿り着く。
「おはようございます」
 午前7時半。私は慇懃に挨拶してみる。
「あ、おはようございます樋山さん」
 返ってきたのは女性の声が1つだけ。部署内はまだ閑散としている。まあ、時間を考えればそれが自然であるのだが。
「早いな、箕原君」
 箕原とは私の後輩で入社3年目のOLである。フルネームは箕原有希子(みはら ゆきこ)。
「樋山さんこそ、いつもより随分早いじゃないですか。どうしたんです?」
 樋山とは私のことである。入社5年目の平社員、フルネームは樋山宏也(ひやま ひろなり)。
「ああ、いつもより随分早く起きてしまってね」
 言って私は苦笑する。早起きは良い事だが、ここ1週間、私の寝覚めはよくない。―――悪夢に起こされているのだから。
 もっとも私はその事を表に出しはしないから、同僚や後輩からは「珍しい」と思われるだけで済んだ。



 夢を見るようになってから、私のサイクルはそれまでとは微妙に変わった。
 今においては、悪夢の事を忘れ去りたいが故に仕事に没頭するようになった。とは言っても――自分で言うのもなんだが――私はもともと仕事熱心なので、周りから見れば大した変化ではない。気付いていない人もいるくらいである。
 何かに没頭すると、時間が経つのは驚くほど早い。



「樋山さん、一緒にどこかに食べに行きませんか〜?」
 唐突にそんな声が頭上からかかった。顔をあげると箕原君の顔。
「何? もう昼休みなのか?」
 驚きの声をあげつつ腕時計を見ると、確かに昼休みの時間、12時半であった。
「樋山さん、ホント仕事熱心なんですねぇ〜」
 箕原君はそう言って苦笑している。ちなみにこの女性は私の仕事熱心ぶりは知っているが、ここ1週間で私のそれに磨きがかかった事には気付いていない。
 とりあえず私は腰を上げた。自分でも自らの仕事量の多さは自覚している分、食は大事だ。とらなければ倒れてしまう。



 社員食堂にて。
 私も、箕原君も、適当なものを注文した。私はきつねうどんで、彼女は親子丼だった。
「樋山さん、前から思ってたことがあるんですけど」
 食事中、箕原君が質問を投げかけてきた。
「今のお仕事、好きなんですか? なんだか、見てて心配になるくらい熱心なように見えるんですけど」
 ……ふむ。
「うーん……そういうんじゃないな。ほら、今は不景気だから、そんな中で私はなんとか職にありつけた。それを失うのが怖くて、必死に業績をあげている……こんなところかな」
 それらしくは言わなかったものの、本心の一部であった。私は普通に生きられることがたまらなく嬉しい質なのだ。こうして今、仕事を持って、社会人として生きられている事を、私は至上の幸福のように感じていた。
「ふうん。でも、そんなに構えることもないんじゃありませんか? 差し出がましくてすみませんが」
 構えている。そうかもしれない。私は苦笑する。
「いや、君の言うこともわかるよ。ただ、どうも私は柔軟になりきれないようでね」
 人に心配されるのは、嬉しくもあり、心苦しくもある。だが、それでも私は今の姿勢を崩せない。
 これ以後は会話の内容は他愛ないものになり、ごく普通に私と箕原君は昼食をとり終えた。



 昼休みの後はまた仕事。私は午前中と同じく没頭する。
 仕事中は仕事の事だけを考え、仕事としてやるべき事だけをやる。とにかく私はそれに集中する。
 自分を仕事に埋没させてしまうかのように。実際、私は仕事の中に埋没してしまいたいくらいであった。
 ――先ほどの箕原君のように、この私のそんな様子を心配する人がいるのは心苦しかったが、それでも私は仕事の中に埋没する事を望んだ。
 ――しかし望めば望むほど、悪夢は私の頭の中に根を深く張っているような気がしてならなかった。
 ある意味当然かもしれない。仕事に埋没したいと思う原因が、その悪夢にあるのだから。



 また突然のように、こんな声が私の耳にはかすかに聞こえた。
「よし、みんな、今日はもうあがっていいぞー。今日は誰も残業しなくていいからなー」
 課長の声である。仕事熱心を自覚する私ではあるが、さすがにこの声を無視して仕事に没頭するような人間でもない。
 とは言っても、私はこの声を聞いた時、『もうそんな時間か?』と思ってしまったが。それに課長の声も、本来なら部屋中に響き渡るくらいの大きさであるはずなのに、私の耳にはかすかにしか聞こえなかった。私の仕事に対するのめりこみ具合は、どうやら相当なもののようだ。
 ノートパソコンとにらめっこしていた顔を上げ、私は椅子の上で背中を大きく反り、思い切り背伸びをした。肩の関節がやけに気持ちよく音を立てていた。
「なー樋山、今日は1杯どうだ?」
 同僚から誘いがかかった。飲みに行くのだろう。が、仕事に没頭していた時は全く気にしないのだが、私には激しい疲労が押し寄せていた。
「すまない、疲れてるからさっさと帰らせてもらうよ」
 すると同僚は苦い顔をする。
「うーわ、お前またかそれ。ちったあ仕事の量減らしたらどうだよ。課長だって心配してるくらいなんだぜ? 『誰か、樋山君を止めてくれ』とか何とか言って、泣きそうな顔してたくらいだから」
 ……初耳だ。まさか課長まで私を心配しているとは。それだけではない、どうやら同僚にも心配をかけているらしい。
 ――やりすぎ、というわけか、やはり。
「……ほどほどにしておくよ」
 今はそれだけしか言えなかった。私は席を立ち、帰宅の準備に取り掛かった。



















 午後7時、帰宅。
 だが、マンションの自宅のドアに、異常な跡があった。
 鍵の部分におびただしい数の傷がある。
 ノブを回してドアを引くと、それはあっさりと開いた。――鍵はかけたはずなのに。よく見ると、鍵は壊されていた。
 そして室内に目を向けると……。



 ―――目の前の光景は、私が今日抱えた疲労を数倍増幅させた。



 どの部屋も、滅茶苦茶に荒らされている。
 タンスやクローゼットやその他、それらの引き出しという引き出しは全て開けられ、中に入っていた衣服やら小物やらはほとんどが床に散乱している。
 典型的な空き巣のパターンの1つであろう。私はすぐさま警察に通報した。
 それから警察が来るまでに出来る限り自宅中を見回り、私は紛失物があるかどうかをチェックした。
 ――奇妙な事に、私の家は荒らされていただけで、盗られた物は何1つなかった。
 だからといって安心は出来なかったが。また狙われないとも限らないからだ。
 やがて警察がやってきて、私が事情を一通り説明すると、彼らは警備をつけると言ってくれた。
 だが、こんな事態ではどうやら明日は会社を休まねばならないらしい。警察だけではなく、自らの手においても警備をしなければなるまい。
 随分厄介な事になったと思い、私は一人、苦笑した。







































「なんだぁ、その反抗的な目は!! 生意気なんだよ!!」
 痛いよ、殴らないでよ、お父さん、僕の何が悪いの、僕が一体何したの……?









































 また、あの悪夢。
 私は飛び起きた。
 またしても目は冴えきり、全身は汗でぐっしょりと濡れていた。
 どうして今になって急に、子供の頃の記憶を夢として思い出すようになってしまったのか。
 全くの理由不明。私は怖くて仕方がなかった。



 午前9時頃、欠勤の旨を課長に伝えた。空き巣に入られたことを伝えると、課長は「仕方がないな」と、すぐに納得してくれたようだった。課長としては、働きすぎな私を今日は見ることがない分、少しは気楽でいられるのかもしれない。
 しかしこちらとしては――自警は自分で考えたこととはいえ、今日は悪夢を忘れんがために没頭できそうな事が何もない。自警と言っても、ただ家の外に出ないでじっとしているだけである。

 じっとしていると、夢に出てきた光景が脳裏に蘇る。八つ当たりのように殴る父親と、殴られる私。また、私への暴行を止めようとしていた母親もまた、父親に殴り飛ばされていた。
 思い出す度、私は寒気を感じて震えた。あの光景は恐怖しか連れてこないのだ。



 午後2時頃。鍵の業者がやってきた。正式には何と言うんだったか……覚えていない。
 作業には30分ほどかかっていた。その30分間、私は業者の作業を食い入るように見つめていた。
 作業終了後、私は業者に金を払い、礼を言っておいた。業者は形式的な挨拶の後、去っていった。
 また、暇になった。







 結局この日は寝る間際まで何事も起こらなかった。……本当に、寝る間際までは。
 寝巻に着替えてベッドに入ろうとした途端、電話が鳴った。ほとんど反射的に、私は不快を感じた。
 しかし出ないわけにはいかない。私は受話器を取った。
「はい、樋山です」
 ごく普通に対応したつもりだった。

 ――しかし、返事がない。

「もしもし?」
 呼びかけるも、やはり返事はない。
 無言電話だ。
 そうとわかると、対応するのが馬鹿らしくなったので、私は受話器を置いた。
 全く、こんな時に…そう思った矢先。

 また、電話が鳴った。

 自宅において、鳴った電話の受話器は取らねばならない。
「はい、樋山です」
 先程と同じように対応する。が、やはりと言うべきか、返事はない。
 私はまた受話器を置いた。

 数秒後、電話はまた鳴る。取り、無言電話であることを確認し、また置く。
 4回目に電話が鳴った時、私はもう受話器を取らなかった。
 コール音は鳴り止まず、私はこの日、電話の音を聞きながら床に就くことになった。































 ―――眠れない。
 目を閉じても、一向に私は眠気を感じない。
 身体が、眠る事を拒んでいるかのような感覚だった。
 一体何故。

 ――悪夢は、予想以上に私の生活を狂わせているらしい。そのことを理解せざるを得なかった。















 結局、眠れないまま、翌日を迎えた。
 無言電話の事を空き巣警備に当たってくれていた警察官に報告すると、彼らは顔に渋面を表した。
「その無言電話、先日の空き巣の犯人と同一人物であるという可能性もありますね」
 なんだって? 私は根拠を尋ねた。
「先日の空き巣では何も盗られてなかったとおっしゃりましたよね?」
 私は頷く。
「犯人の目的は金品じゃなくて、何か、あなたについての個人情報だったのかもしれませんよ」
 そこまで聞いてようやく私は理解した。なるほど、それならば空き巣と無言電話が同一犯だという説は納得が行く。
 空き巣に関しては、ただ荒らすだけの愉快犯も多いと聞く。今回の場合はそうでなくとも、情報を得るのが目的であって、盗品がないのもある意味自然と言えるだろう。
 私の個人情報を得るなら、保険証あたりを見るのが簡単だ。それに、わざわざ持ち出さなくとも、情報の中でも必要とする部分はメモを取るなどの方法を使えばよい。
 ――事態は厄介な方向に進み続けている。そんな実感をしてしまった。









 この日はいつもよりやや遅れはしたものの、会社に出勤した。
 課長、同僚、後輩。いろいろな人々に心配そうな声をかけられたが、大丈夫と胸を張って言えばそれで周囲は引いてくれた。
 そして一昨日までと同じく私は仕事に埋没せんと、身を粉にして働いた。
 ……自分としてはそのつもりであったが、身体が思うように動かなかった。そういえば今日は睡眠不足だったことを思い出す。
 周囲には心配される一方であった。





 この日は睡眠不足が祟って、いつもより疲労数倍増しでの帰宅となった。
 警備がついていたのが効果大と言うべきか、この日は家は平穏無事だった。あとは電話の件である。
 が、私は睡眠不足のおかげで家に帰り着くなり、スーツ姿のままベッドに倒れこみ、そのまま寝てしまった。
 そのため、この日電話がかかってきたかどうかは知らないままとなった。



 寝たと言えば。
 この日、夢は見なかった。
 よほど眠りが深かったのだろうか。というより、眠りが深くて当たり前だったのだろうか。
 くどいようだが、私は睡眠不足だったのだから。













 翌日。
「…………」
 私はうっすらと目を開ける。
 自分の服装を見てみると、スーツ姿のままだった。着替えないまま寝たのだから当たり前である。
 部屋を見渡す。……窓から日光が差していた。それはとても眩しかった。
 ――あることに気付き、はっとして目覚し時計を見た。
 時計は8時を差している。
 ……遅刻だ。今から出かけても大きな遅刻だ。
 しかも、よりによって寝坊遅刻。最悪だ。
 しかしなぜか、私はそれほど悪い気分というわけでもなかった。悪夢を見ずに眠れた事を非常に快く思っていたのかもしれない。
 だが、遅刻はしていいものでないことに変わりはない。今日、それを避けられそうにないのは歯痒かった。

 とにかく欠勤はすまい。私は課長に連絡を入れてから、簡単な支度の後に出勤した。
 電車に乗り合わせたのは8時半過ぎ。
 乗客は、今の私と同じく通勤中のサラリーマンと、通学中の学生が半々くらいの割合で交じり合っているようだ。
 ……他はどうだか知らないが、私は遅刻だ。周囲がやけにのんびりしているように見えるのが、やけに苛ついた。
 とりあえず通勤にかかった時間はいつもと変わらぬ1時間。







 咎めはなかった。
 むしろ、しばらく休暇を取った方がいいとも言われた。
 しかし、私はそれらに対し、やはり首を横に振った。
 不器用な奴と言われるだろうか。言われるなら、それはそれで別に構わないが。
 ……一昨日に聞かれた時は曖昧ではありながら否定したものの、やはり私は仕事好きなのかもしれない。
 周りを心配させるほど働く人間が仕事好きとは限らないけれど、それは本人に自覚がないだけなのかもしれない。
 私は仕事好きという自覚がないだけなのかもしれない。







 結局、この日も働き倒した。そして疲れた身体を引きずるようにして帰宅。
 ここまでは問題はなかった。つまりここから問題があった。
 警備に当たってもらっていた甲斐があって、空き巣の気配はない。
 しかし……家の中では奇怪な事件が起こっていた。



 家のリビングに足を踏み入れると、紙が散乱していた。
 原因はすぐにわかった。これらの紙はFAXが吐いたものらしい。
 それだけでも異様なのに――紙に刻まれた文章は。

 『やっと見つけた。もう逃がさない』

 ――私は疲れも忘れて戦慄した。
 こんなことをするのは一体、誰だ。何の目的で私を狙うんだ。
 よく見ると、私が手に取った紙だけではなく、撒き散らされた紙全てにそんな事が書いてあった。
 ――この時点で、私は随分と気が狂いそうになっていたことだろう。しかし理性がそれを押しとどめる。
 しかし、この件で私はそうとう危うい状態になってしまった。
 明日は欠勤だ。





















 ―――――























 会社を1週間連続で休んだ。
 今のままではろくに仕事も出来やしない。そう思っての欠勤ではあるが、すでに解雇される覚悟は出来ていたりする。
 ストーカーは思った以上に私の精神を蝕んでいた。
 ――随分と突然に、事は始まったように思う。
 ――始まりは1週間以上前のあの空き巣だろうか。実際にはそのはずなのだが、本当の始まりはそれ以前のような気もした。
 ――夢を見た時こそ始まりだったのかもしれない。

 ピーンポーン……。

 インターホンが鳴った瞬間、私は思わず身を強張らせてしまった。が、普通の客人かもしれない。いや、普通はそのはずなのだが。
「はい?」
「お元気ですか樋山さん? 部署代表でお見舞いに来ました〜」
 箕原君の声だ。私は自分でも過剰だと思うほど安堵した。
 お見舞いという言い方に苦笑もしたが。別に大怪我とか病気で病院にいるわけじゃないのに。まあ、1週間も休んでいるのだから、表現として間違っているとも思わないけれど。

 ガチャリ。
「汚くて狭い家だが。ゆっくりしていってくれ」
 私は快く箕原君を迎え入れた。
「へえ、わりと片付いてるじゃないですか。私が来る事を知ってたわけでもないでしょうに」
 箕原君は私の家に上がりこむと、そんな言葉を洩らしてくすりと笑っていた。
 部屋が片付いている。それもそのはず、家にいる間は私は他にやることが無かったため、ここのところ放置気味だった、部屋の整理整頓をしていたのだ。
 しかしそれはすぐに終わってしまった。家全体の片づけを済ませるのにも、ゆっくりめにやったにもかかわらず3日程しか時間はかからなかったように思う。
 暇つぶしのしようもなく、私は珍しく、しばらく家でゴロゴロする生活を送っていた。―――私の性には合っていないらしく、体がどことなくむずがゆくなる感覚があった。
「何か、お茶でも出そうか?」
 せめてものもてなしをしようと思った。私は言いながら、リビングのソファからゆっくりと立つ。
「あ、紅茶があったらお願いします」
 箕原君は遠慮の風もなく言う。紅茶……あったっけか。
 適当に台所を漁っていると、ティーパックセットが出てきた。……いつ買ったんだコレ、と思いながら消費期限を見ると、今日より後の日付が記されていた。大丈夫。
 カップにお湯を入れてパックをそれに浸して……と。こういうことはあまり慣れてない。説明を見ながらたどたどしく作業を進めていく。
 とりあえず、2人分は無事に淹れる事が出来た。
「不味いかもしれないが」
 言いながら私は紅茶をテーブルに置く。
「どうせインスタントでしょう? あんまり期待はしてませんよ」
 さらりと言われて私は苦笑する。

「大変らしいですね」
 箕原君が、切り出すようにそう言った。
「ああ、大変な上にろくなものじゃない」
 本当に、ろくなものじゃない。悪夢にうなされるわ、空き巣に入られるわストーカーが付きまとうわ。気持ちの良くない出来事がこうも立て続けに起こるとは。
 私の精神的疲労は、おそらくこの時が人生で最大のものとなるだろう。
「でも、樋山さん働きすぎだから、休むにはちょうどいいかもしれないですね」
 箕原君はさらりとそんなことを口にする。ちょうどいいとは何事だ、と一瞬だけ突っ込みを入れたくなったが、思い直した。――そんなにも私は働きすぎに見えるというのだろうか。

「やれやれ。しかし、もうそろそろ復帰しなければならないな。もう1週間も家でゴロゴロしているのも、退屈でしょうがない」
 箕原君はやや大げさにため息をついた。
「樋山さん、やっぱり仕事好きなんですねえ」
 呆れたように言われ、私は苦笑を返した。





























 翌日、私は久しぶりに出勤することにした。
 随分と休んでしまった。その遅れは取り戻したい。

「おはよう」
 自分の部署に入り、私はいつも通りに挨拶をした。
 途端に視線が集中してくる。
「樋山君、もう大丈夫なのかね?」
 一番に声をかけてきたのは課長だった。
「ええ、いつまでも休んでいるわけには行きませんからね」
 その後、同僚達に同じ質問を繰り返され、私も同じ答えを繰り返していた。
 少し鬱陶しく思ったものの、私はこれほどまでに心配されていたのかと、嬉しく思い、申し訳なく思った。

 例によって、私はこの日も仕事に没頭する。
 あまり、ほかのことを考えるような余裕を自分に与えたくはなかった。
 悪夢や、見えないストーカーに追われていることに変わりはない。
 せめて、それらと全く関わりのない時を持ちたかった。それを求めるように、私は仕事に没頭する。







 全くいつもと同じように時が過ぎ、気がつけばもう退社可能な時間であった。
「桧山君、出てきて早々に悪いが、残業してくれないかね?」
 一息ついて伸びをする私に、課長は恐縮そうに声をかけてきた。――変な気がした。どうして部下の私に課長は気を使うのか。
「遠慮する事はありません。引き受けましょう」
 私は快く応じた。もう少しだけ仕事に集中できる。忘れていられる。そう思えば、残業は辛い事ではない。





























 だが、この選択が間違っていたことを、この時の私は知る由もなかったのだ。





























 午後9時。
 残業と称して、やるべき事は全てやってしまっていた。やる事が無ければ、もう家に帰るしかない。
 私は会社を出た。



 会社最寄の駅から電車に乗り、自宅近くの駅で降りる。ここまでは普通だった。

 駅から家までの道を歩いている途中だった。











 前方の暗闇に、人影が見えた。
 別に珍しい事ではない。帰り道を歩いていて、人とすれ違う事もある。
 私は気にも留めず、その人影とすれ違った。











 次の瞬間。





















 ドカッ







「!? がっ!!」



 いきなり、背中を蹴り飛ばされた。あまりに突然の事で受け身も取れず、私は前のめりに倒れてしまった。

 かと思うと、いきなり後ろ襟首を掴まれ、私の身体はうつ伏せから仰向けにひっくり返された。



 相手は私の顔を直視していた。私はこの時、冷静で居たはずがなかった。

「な、何するんだ、いきなり!!」
 私は叫んだ。だが相手は私のそんな声を無視して、言った。











「よぉ……やっと会えたなぁ、クソガキ……」

 !!!!!







 ……この……声は。





























「お前、部屋は散らかすなっつったろうが!! 邪魔なんだよ!!」
「うるせぇ!! いちいちピーチクパーチク泣いてんじゃねぇよ!!」
「なんだその目は!! 文句あんのか、えぇコラ!?」













「あなた、やめて!! それ以上やったら、この子が……!!!」
「うるさい!! お前は黙ってろ!!!」













「なんだぁ、その反抗的な目は!! 生意気なんだよ!!」





























どうした? お前は親の顔も忘れちまうような薄情者なのかよ、えぇ?」



 ……この、声は……………コイツの、顔は……………。









「……父……さん…………?」

























「何、人の許可も取らねえで普通の生活してやがんだよ、えぇ!?」



「ぐはっ!!」













「てめえが今みてぇに幸せな生活してんのを、誰が許したんだよ!? ふざけてんじゃねえぞコラ!!!」



「ウグッ……!!!」













「周りの人間も、あのクソアマも、てめえまでもこの俺を侮蔑しやがって!! いつから俺より優れてるなんて思いやがったんだよコラァ!!!」



「グッ……ゲホッゲホッ!!!」













 ……どうして僕を殴るんだ。
 ……どうして僕が殴られなきゃならないんだ。



 ……周囲があなたを軽蔑するのは、あなたに問題があるからじゃないのか。



 口の中に、血の味が広がる。――ひどく不味い。









「てめえ……なんだ、その反抗的な目つきは!!! 気にいらねえんだよッ!!!!」



「グハッ!!!」













「……こで……」



「あぁッ!?」



「……どこで知ったんだ……僕の住所……」





 父さんは、嫌らしく笑う。





「ああ? そんなもん、偶然見つけたに決まってんだろうが。震えたゼェ、息子がここに住んでるって知った時はヨォ」





「……なら……空き巣もストーカーも……悪夢も………全部、あんたの仕業か………」





「だったらどーだってんだ!? もう隠れる必要もねぇ、てめえは生きてるだけで腹が立つ。ブッ殺してやる!!!」





 ―――いかれている。実の息子を「殺す」だと……?



 言ったが早いか、父さんはジーパンのポケットから何かを取り出した。
 街灯の光を浴び、それは冷たく光っていた。



 ――まぎれもなく、それは「ナイフ」という刃物だった。































「死ねえぇッ!!!!」











 ―――嫌だ―――死にたくない―――











 ―――何で僕がこんな目に遭わなきゃならないんだ―――











 ―――僕は何も悪い事などしていない―――



























「何ッ!?」



 私の両手が、ナイフを振り下ろした父さんの右手を全力で掴み、食い止めていた。

 そこから、2人は激しくもつれあった。









 意識が、真っ白になった。







































「クソガキがああああぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!!」



「うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!!!!!」



























































 静かになった。







 恐ろしいほどに、静かになった。















 闇と、街灯の光の下に、







 呆然とした私と、胸を真っ赤にして横たわった、私の父さんがいた。











































 ―――狂っていたのは、父さんだけだったのだろうか。

































 ―――殺さなければ、父さんを止める事は出来なかったのだろうか。































 ―――殺して父さんを止めた私は、狂っているだろうか。

































 ―――悪夢が1つ終わり、1つ始まったに過ぎなかった―――












































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