……あなたは嫌な事をどこまで我慢できますか。

 ……あなたは何を言われると腹が立ちますか。



















































「ただいま」

 遠藤萩(えんどう しゅう)はその日、サラリーマンとしていつも通りに帰宅した。
 だが、迎えの声はかからなかった。
 妻の茜(あかね)はリビングのソファに腰掛けていて、夫の帰りを待っていたという様子もなく、夫が帰ってきたと知るや、ついとそっぽを向いてしまった。
 ここ数日、萩と茜は会話をしていなかった。それどころか、萩が帰ってきても、茜はそれを迎える事すらしなくなっていた。
 その原因を萩は理解できず、茜がそうなってからかれこれ2週間が経っていた。
 そんな妻の態度から、妻は何かしらの不満を抱えているのだろうという事は萩にも理解できた。
 萩はできる限り茜が自分の行動に不満を持ちそうな所を改善していったのだが、茜の態度は変わらなかった。
 今日は夜の10時と時間も遅く、また萩自身疲れていたので、萩は茜に、自分に冷たくする理由を聞こうとは思わなかった。





 翌日。
 いつも通りの簡単な朝食を取り、萩は自宅を後にした。
 このとき、茜の見送りはなかった。







































 会社内の経理課で。
「なぁ、遠藤。お前、最近疲れてるんじゃないか?」
 萩は、同僚の山崎拓郎(やまさき たくろう)に、心配そうな声をかけられた。
「……ああ、ちょっとな。でも、大した事はないから気にするなよ」
 萩は同僚に余計な心配をさせまいと、明るく振る舞った。
「……そうか。でも、あんまり抱え込むのも問題あるからな。辛くなったら、誰かにでも言うといいさ」
「気にしなくていいよ。俺は大丈夫だから」
 あくまで萩は拓郎の言う通りにしようとはしなかった。
 と、そこへ。
「遠藤君、ちょっと来なさい!」
 怒気を含んでいるような声がかかった。課長の芝山庄三(しばやま しょうぞう)からのようだ。
 萩は声に従って課長のもとへ向かった。それを見た社員は、課長に分からないように、一斉にため息をついた。「またか」とでも言うような。
「課長、何でしょうか?」
「何でしょうか、じゃないよキミ!! この書類、ココが間違ってる。すぐに直すように!! この書類はね、今度の決算において重要なものなんだ。一字一句、間違われちゃ困るんだよ!!」
 課長はそう言って萩に書類を付き返した。
「・・・わかりました、以後気をつけます」
「フン、そのセリフ、何度聞かされたことか。私は寛大だからな、私以外が上司ならば君はとっくにクビなんだぞ、クビ!! わかっているのか!?」
「存じております」
「フン、信用しかねるな。まあいい、今回はこのあたりでやめておくとしよう。今後、このようなミスは2度としないように気をつけてもらいたいものだな」
「わかりました。では私はこれで失礼します」
 萩は当り障りの無い敬語を課長の前に置き、自分のデスクに戻った。
 周りから見れば、今の会話からして課長は明らかに萩を嫌っているということが容易に理解できた。いじめる上司といじめられる部下、という関係である。あまりにあからさまなため、課長は萩を恐れているとか妬んでいるとか、そんな噂が経理課の間で流れていた。最もその噂は、当人達には伝わっていないのだが。
 課長はともかく萩は知っていそうなものだが、同僚は課長に怒鳴り散らされる萩を哀れに思うものの、萩をかばって課長のいじめ対象にされてはかなわないということから、誰も萩をかばおうとはしなかった。彼らに出来る事は、課長の居ないところで萩をなぐさめてやるくらいしかなかった。
 それほど萩は哀れに見えたのだが、彼自身は課長に文句の1つも言った事がなかった。そのことで彼は同僚達に感心されてもいた。だが、同僚の1人である拓郎は、あることを懸念してもいた。
「(……抱え込みすぎなんだよな、あいつ……マジで、気が振れたりしなきゃいいけど……)」
 拓郎は面と向かって萩を気遣えない自分を、恨めしく思っていた。





















 その日、経理課はみんなで飲みにいこうということになった。
 そのことを伝えようと、彼は自分の携帯から、家に電話をかけた。

 Prrrrr……。

 『はい、もしもし遠藤です』
「茜か? 俺だけど……」

 ガチャリ。

 電話は切られた。
 ツー、ツーという無機質な音が、携帯電話の向こうから響いてきた。
 萩はかすかなため息をつき、電話を切った。



















 とある居酒屋で、経理課の社員は大いに騒いでいた。
 萩はというと、彼は本来酒が飲めない体質のために参加したくは無かったのだが、課長のご機嫌を取るために参加せざるを得なかった。
 彼は先に席についたのだが、あろうことか、課長はテーブルを挟んだ彼の真正面に座ってきた。
 萩は静かにジュースを飲んでおり、課長はというと、もう3本もビール瓶を開け、強引に隣に座らせたOLにセクハラまがいの行為をしている。真正面に座ってその行為を見ていた萩は、よくあれで訴えられないものだと、内心呆れていた。
 と、そんな萩にも、泥酔状態の課長は絡んできた。
「遠藤君、君も1杯行きなさい」
 非常に感じの悪い印象だった。
「いえ、僕はお酒は飲めませんので」
 萩は丁重に断りを入れた。すると―――萩から見て、課長の次の行動というのは容易に予想できたが。
「何ぃ〜? ワシの酒が飲めんと言うのかぁ!?」
 そのやりとりを見た周りの社員が、ひそひそ話を始めた。
「あ〜……課長、また遠藤君に絡んでる〜」
「遠藤、ホントにお酒弱いのになぁ。コップ1杯でぶっ倒れてたって言うのに」
「でも、下手に止めようとすると今度は私達がひどい目に遭うわよ? 最初の時がそうだったじゃない」
「……ホント、すまん遠藤……」
 社員たちは心の片隅で、萩に謝っていた。
「課長、覚えてないんですか? 僕がお酒を口にしたらどうなったか」
「そんなもの、いちいち覚えているものかぁ。上司が注いだ酒を口にできんとは、君はなんとゆ〜礼儀知らずなんだぁ〜!? 今すぐクビになってもいいというんだなぁ〜?」
「いえ、口にしたいのはやまやまなんですが……」
 萩は腹を押さえつつ、泥酔状態の課長の相手をしていた。
 結局彼はこの出来事のせいで、今回の飲み会を少しも楽しめずに帰宅したのだった。







































「ただいま」
 彼は先程の飲み会で、課長の相手をしていたためにひどく疲れていたのだが、それを悟られないような声で茜に帰宅を告げた。
 だが、昨日と変わらず、返事は返ってこなかった。
 茜は昨日と同じく、リビングのソファに腰掛けていた。萩の顔を見るやそっぽを向いてしまうところも、昨日と同じだった。
「……茜」
 名前を呼んでも、茜は振り向かなかった。
「……なぁ。俺に何か不満があるのか?」
 茜は答えなかった。
「不満があるなら言ってくれよ……なぁ」
 萩がそこまで言って、ようやく茜が振り向いた。
「……言わないとわからないっていうの?」
 萩に取って茜のその言葉は、あまりにも冷たかった。
「……そうまでしないとわからないなんて、鈍い人ね、あなたは」

















 萩の中で、何かが振り切れた。



































「いいかげんにしてくれ!!!!!!!!!」
 萩は、今まで自分が出した事の無いような大声で、茜に叫んだ。突然だったからだろうか、茜は怯えてすくんでいた。
「俺が……鈍いだって!?」
 萩は茜を睨みつけた。あまりの迫力に、茜は声を出す事も出来ないようだった。
「確かに俺は鈍いかも知れない……けどなぁ、お前が不満を抱えてたのはわかるよ!! お前が言ってくれないから、俺は自分でお前が不満を持ちそうな自分の行動を振り返って、思い当たるところは全部直したつもりなんだ!! なのにお前は機嫌を直してくれない……これ以上、何をしろってんだ!!!!!!!」
 萩はそこまで言って、茜に掴みかかった。が、すぐに膝を折って体勢を崩した。彼は―――――泣いていた。
 一方、茜は―――――うずくまって泣いている萩の姿を見つめ呆然としていた。



 やがて茜は、萩に手を差し伸べた。
「……あなた……ごめんなさい……」
 その言葉に、萩は顔をあげた。彼の顔は、ひどく泣き濡れていた。
「気付かなかったのは……私の方よ……あなたが気付こうとしてくれていた事に、私は気付かなかった……ごめんなさい、本当に……」
 そこまで言って、今度は茜が涙を流し始めた。修は自分の涙をぬぐい、茜を抱いた。
「……いいよ、もう。元はといえばお前が俺に何かの不満を抱えたからだ。抱えたのは俺に原因があるからだろう? だから、お前が謝る必要はないさ」
「……ごめんなさい……」
 茜は嗚咽混じりに呟いた。









































 その後、2日間の休みの後の朝。
「ん……んん〜〜〜〜〜」
 萩は大きく背伸びをして、目覚めた。
「……なんか、こんなに気持ちのいい朝は…………久しぶりだな……」
 萩は妙に感慨深げにそう呟いた。
「あなた〜、朝ご飯出来てるわよ〜」
「あ、おはよう、茜」
「おはよう、あなた♪」
 茜は愛想よく、萩に挨拶を返した。そのことに、深く安心する萩だった。



「行ってきま〜す」
「行ってらっしゃ〜い♪」
 萩は会社へ出かけ、茜はそれを明るく送り出した。
 彼女の本来の明るい性格が戻ってきた事に、大きな歓喜を覚えた萩だった。







































 だが、この日に事件が起こることを、誰もこのときは知る由も無かった…………。







































「おはよ〜」
「おはよ〜……って、遠藤、今日は妙に明るくないか?」
「そうか? いつもこんなもんだろう」
 経理課に入るなり、萩は拓郎にその様子を驚かれたが、彼自身に自覚はなかった。
「ま、その調子なら今日は絶好調そうだな。今日も頑張ろうぜ!」
「……あ、ああ……」
 拓郎の言っている事はよくわからなかったが、自分を励ましてくれている事には違いないと思い、気合の入る萩だった。
 また、萩のその様子は、経理課の他の社員にも活気を与えていた。



 ……しかし。
「遠藤君、ちょっと来たまえ!!!」
 萩を中心とした明るい雰囲気は、その声に吹き飛ばされてしまった。
 萩は文句1つ言わず、課長のデスクの前に立った。
「何でしょうか、課長?」
「何度同じようなミスを繰り返したら気が済むんだ!!!! この書類、ココが間違っている!! すぐに直すように!!!!!」
 課長はいつにも増してはげしく怒鳴っていた。
「……わかりました、以後気をつけます」
「フン、そのセリフは昨日も聞いた!! 同じ言葉を繰り返して頭を下げればいいってものじゃないんだよ!! わかっているのかね!?」
「十分に存じております」
「信用できるか、全く!! だいたいなぁ、今日の君は一体何なんだ!! チャラチャラしている暇があったら、こんなミスの1つも出さないように、真面目に仕事したらどうなんだ!!」







































 再び、萩の中で何かが振り切れた。







































「課長……」
「何だ!! 何か文句でも…………!?」
 課長は萩を黙らせるために怒鳴ろうとしたが、萩の表情を見た瞬間、凍りついたように動かなくなった。
 萩の様子はまぎれもなく、『豹変』だった。課内の社員も、驚きで萩の方を見て固まっていた。
「俺はね、この仕事に就いて、あんたが上司になってからね、ずーーーーーーーーーっとね、附に落ちない事があったんですよ……」
 声は恐ろしいまでに低く、目はその気になれば課長を射殺すこともできそうなほど、冷たい光を宿していた。
「あんたはいつも俺の書類作成の間違いばかり指摘してくるけどね、俺は作った書類はね、何度も何度も見直してるんですよ……これでも完璧主義者ですので」
 課長は萩の表情に迫られ、蛇に睨まれた蛙のように身をすくませ、声を出す事も出来ないようであった。
「そうしてチェックを重ね、文章も内容も全く間違いの無い物ばかりをあなたに提出しているはずなんですよ……なのに、あなたは翌日に書類の間違いを指摘してくる。まぁ、『厳正なチェックをしているはずですが』なんてあんたに言っても、信用されないのがオチだろうから、言わなかったですけどねぇ……」
 課長の額に、じわりと汗が浮かぶ。その汗は、萩には単なる怯えからくるものだけではないように見えた。
「あんた、俺の提出した書類にわざと間違いを作り、それを俺に突きつけていたんじゃないですか……? 最も、これは俺の推測ですけどね」
 萩の発言に、課内がどよめいた。当たり前だ。上司が部下をいじめるにしても、萩が言ったような行為はあまりにも過激すぎる。やがて、社員の視線は次第に課長の方に集まっていき、課長本人は額に大量の汗を浮かべた。明らかに怯え以外の焦りが見えた。
「課長……あんた、そこまでして遠藤を追い詰めてたって言うんですか!?」
 拓郎が叫ぶが、萩はそれを制した。
 課長は震えて萩を見ていたが、萩が放つ威圧感に気圧されながらも、叫び声で反論し始めた。
「・・・しょ、しょせん推測だ!! 証拠がどこにあるって言うんだ!!! そうだ、君の推測に証拠などない!!! でたらめな事を言って私を追い詰めおって!!! 今まで恩情でクビにしないでおいたものを!!! もういい!! 遠藤君、君はクビだ!!! この会社から出て行け!!!」
 とうとう言った。事実上、萩は会社をクビになったのだ。
 視線は再び萩に集中した。
「(……おい、これじゃあ遠藤があまりにも……)」
「(ええ……でも、課長の言う通りよ。証拠がないわ)」
「(……やっぱり遠藤をかばう事はできねえんだよな……今の不景気の中、簡単に仕事やめられねえし)」
 おそらく社員は全員が萩の味方なのだろうが、萩をかばって仕事を失いたくないという思いから、結局全員、萩を見守ることしか出来なかった。
 萩は何も言わず、経理課を去っていった。
 社員達は去っていく萩を、哀れむように見つめていた。













 その後、昼休み。拓郎が昼食をとろうと会社の近くのラーメン屋に入ると、カウンターで味噌ラーメンを食べている萩がいた。
 拓郎は醤油ラーメンを注文し、萩の隣に座った。
「……すまなかったな、何もしてやれなくて」
 拓郎は本当にすまなさそうに、萩に言った。
「いいよ。みんな、生活が掛かってんだろ? 俺に味方したら、あのオッサンのことだ、すぐにクビ切りやがるぜ」
 萩はそう言った。彼に拓郎を責める気はなかった。
「けど……お前、これからどうすんだ? お前、奥さんいるんじゃなかったっけ?」
「さあな……しばらくは失業保険でなんとかなるだろ」
 萩は何故か楽観的だった。その様子に、これまた何故か、拓郎は不安を覚えた。
「……頼むから、ヤバイことはしないでくれよ……」
 不安を拭い去れない拓郎は、とりあえず萩に忠告してみた。
「……難儀な注文だな」
 それが、萩の答えだった。
「そうか……じゃあ、もう何も言わん。せいぜい上手くやってくれ」
「ああ……」
 拓郎は会話の最中、早々に醤油ラーメンを食べ終え、そのラーメン屋を去った。
 萩はこのとき、ある『覚悟』を決めていた。







































 その日、彼は家に帰らなかった。
「(……いくら何でも、連絡くらいは入れとかないとマズイかな……)」
 萩は家に電話をかけた。

 Prrrrr……。

 『はい、遠藤です』
「茜か?」
 『あ、あなた? どうしたの? また今日も遅くなるの?』
「いや、実は……」

 萩はここで、今日、会社で起きた出来事と、これから自分がしようとしていることを、全て話した。

 『……そう……』
 以外にも、茜の反応は淡白だった。
「……止めないのか?」
 『・・・あなた、ごめんなさい』
「?? ど、どうしたんだよいきなり?」
 『あなたが会社でそんなひどいいじめを受けてたなんて、私、全然知らなかった……』
「知らなくて当たり前だって。俺が全然言わなかったんだから」
 『でも……そうと知らずに私、昨日……』
「・・・それはもういいよ。あれは俺にも責任あるんだから」
 『……あなたは優しい人ね』
「は?」
 『……そうやって全部抱え込んで、自分1人でなんとかしようとして……あなたのことだから、周りに負担をかけたくないって思ってるんでしょう?』
「……わかってんじゃん。悪い癖だって周りは言うけどさ」
 『私もそう思うわ。会社での事、誰かに相談してたら、今日みたいな事にはならなかったんじゃ……?』
「さぁな。それは、今考えてもわからないよ」
 『ねぇ、私達……もう、会えないの?』
「……多分。茜は、俺の行く道に来てはいけないよ」
 『……うん……』
「……ごめんな、ダメな夫で」
 『そんなことない……そんなことないから……』
「……こめん。じゃ、切るよ」
 『うん……さよなら、萩……』
「さよなら……茜」

 萩は、そこで電話を切った。

 だから、携帯電話の向こうで、茜が電話の前で泣き崩れた事は知らなかった。









































 萩を解雇した日の夜。
 芝山課長はいつも通り、マンションの自宅に帰ってきた。
 一人暮らしなので、迎える者は誰もいなかった。
 課長は玄関のドアを閉め、玄関横の壁のスイッチをつけた。
 すぐに部屋が明るくなり、リビングまでの道を示す。
 課長は荷物を降ろそうと、リビングまで疲れたような足取りで――実際疲れている――歩いた。



 そして、リビングに足を踏み入れたその時。















 突然、課長の首にローブが巻きついた。
「グッ!? グワァッ………!?」
 課長はロープを外そうとして指を引っ掛けたが、その些細な抵抗も空しく、腕をだらんと下げた。そのまましばらく首を締められ―――――芝山庄三はあっさりと絶命した。
 死体の前に立っているのは、黒いニット帽を被り、黒いジャケットを着用し、黒いジーパンを履き、黒いサングラスと白いマスクで顔を隠した、遠藤萩だった。
 萩はサングラスとマスクを外して死体を数秒見つめた後、速やかにその場を去った。







 マンションという場所にもかかわらず、この静かな殺人に気付いた人間は1人としていなかった。







































 そしてこのときを境に、遠藤萩という男の行方は、誰にもわからなくなった。







































 遠藤萩という男の人生は、こうして、どこまでも深い黒に、塗りつぶされた。








































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