相手の剣の力強い一振りを自らの剣で受け、その重さゆえに伝わる自分の手のびりびりとした感触に、私は表情をわずかにゆがめる。しかしそれを抑えて私も力を込め、相手に押し負けまいと全力を注ぐ。



 試合開始前、お互いに剣を握る腕を伸ばして、ようやく先端が触れるか触れないかという距離で、私と相手は向かい合っていた。その間合いを、合図とほぼ同時かと見紛う程の反応で、またほぼ一足飛びとも見えるような速さで、相手は一瞬にして詰め寄り、私に剣を叩きつけてきた。辛うじて、私も自分の剣でそれを受け止める。



 時間にすれば数秒も経たない出来事だったが、直後、観衆の怒号じみた歓声が、コロッセオを揺るがさんばかりに、空気を引き裂かんばかりに大きく響いた。



 相手より叩きつけられた一撃の重み、そして観衆すべてが我らに向ける熱狂が、試合前までは波紋一つ無い水面のようでさえあった私の心にも、大きな嵐をもたらす。






 それは暴虐に荒れ狂う波のようであり、すべてを焼き尽くす業火のようでもある。






 余計なものなど必要ない。考えることすらわずらわしい。






 コロッセオより生み出されし狂熱を宿らせ、私は人ではなく、暴虐なる化け物となる。


















 ここは伝説のコロッセオ。
 この国に住まう人々誰もがそのように呼び、讃え崇める、この国でもっとも神聖なる地。
 そして今は、国内最強の闘士を決定する闘技大会が行われている舞台でもある。



 最強の闘士を決定すると言っても、このような闘いに身を投じるのは一般市民ではなく、我ら剣闘士奴隷の役目。人々の多くはこのコロッセオに、自らが最強であると示すためではなく、我らの闘いをこの目で見ようとやってくる。そして我らはそうして集った市民たちの前で、生死をかけた、血で血を洗う闘いを繰り広げる。



 闘いに出る者たちの多くは、観衆を楽しませようと思ってなどいない。また、命が惜しい者なども居はしない。そして、剣闘士奴隷であるという自らの立場さえも意に介さない。彼らは、いや我らは、自らが心の底から満足のいく闘いを繰り広げられれば、それで良い。むしろ我らは剣闘士奴隷であるがゆえ、戦うことのみを宿命とし、自らが強きことに揺るがぬ誇りを持つ――奴隷制度に異を唱える者、奴隷制度が存在するがゆえに虐げられる者もいると話には聞いていたが、我らにはまったくもってどうでもよいことだった。






 ただ、我らは自らを満足させる闘いができれば、それで良いのだ。そして舞台に立ち、目の前の同じ剣闘士奴隷の一人を相手に、全力をもって我が力を叩きつけるだけの話だ。



















「それまで!」



 審判の声がはっきりと響いた。それと同時に、私は自らの手で撥ね飛ばし、ゆるやかに投げられた球のように宙を舞う、相手の頭を眺めていた。首として胴体と繋がっていた部分からは、鮮血が撒き散らされている。それはコロッセオの広い範囲を紅く汚した。
 頭を失った胴体は、握っていた剣を取り落とし、頭と繋がっていた部分から溢れんばかりの血を噴出させ、前のめりに、私に向かって倒れてきた。服が、返り血にまみれた。



 舞台にあるのは、勝者として立っている私と、闘いに敗れ、無様な姿をさらけ出し、剣闘士奴隷としての宿命と誇りを惨めに崩壊させた、頭と体を切り離され、紅い血にまみれた死体。そして、

「勝者、グリーブ=べルゾトス!! 次の試合まで待つが良い!!」

 高らかにそう宣言する、審判の姿のみだった。一礼をし、試合後も興奮冷めやらぬ観衆の怒号を背に、私は舞台を降りた。



















 出番を待つ剣闘士奴隷のために用意された部屋。そこは本当にただじっと待っているためだけの場所であり、ゆっくり休むための用意などどこにもない。どれだけ強さを示そうが、どれだけ自らに誇りを持っていようが、所詮、剣闘士奴隷とはあの舞台で観衆を楽しませることのみが役目であり、それは他者から見た場合における、剣闘士奴隷である限りの宿命であり、死せば価値のない塵と変わりはしない。



 考えたところで何にもなるまい。それどころか雑念として闘いの邪魔になりかねない。しかし出番を待っているだけ、時間が過ぎるのをただ待っているだけという状態は、あまりにも退屈だ。出番はまだか、だけでは退屈は埋まらない。どうしても、雑念が頭に浮かんでしまう。私の強さはまだまだか、とさえ思う。






「誰か、おられますか?」






 突然、扉の向こうから声が響いた。案内役の呼び声以外が響くことなどありえないはずなのに、その声は案内役のそれではなかった。

「……誰だ?」

 短く呼びかけると、声の主は失礼しますと言って、そっと扉を開けて、この何もない部屋に入ってきた。
 その姿に、私は戸惑いを覚えた。入ってきたのは、闘士たちより二回りも小さく、私が二本の指で腕を軽くねじっただけで、簡単に骨など折れてしまいそうな、あまりにも華奢な印象を受ける少女だった。服装も薄布のドレスを軽く身にまとっているだけの、あまりにも無防備で弱々しいもので、その少女はコロッセオという場所にあまりにも似つかわしくなかった。

「先の闘いを、拝見させていただきました」

 外見の華奢な印象とは裏腹に、少女は私の顔をまっすぐに見て、透き通るような声を響かせた。

「……何者だ。ここは一般の人間がやってきていい場所ではないはずだ」
「なら、私は一般の人間ではないということです」

 私の問いかけに対し、少女はあっさりと答えた。私に怯えている様子は少しも感じられない。

「……ならばなおさら、お前は何者なのだ」



「今は答えられません。ただ、あなたがこの先も勝ち進めば、やがて私のこともおわかりになるでしょう」



 逆に、私を試すような言葉を投げかけてくる。勝ち進まねば、わからないというのか。



「ふざけたことを。そのような口を利くならば、その首を切り落としてくれようか」

 不快感とともに私はそう言って、少女の首筋に剣を突きつけた。しかしそれでも少女は動じない。






「そうすれば、結局私が何者かはわからないままですよ? あなたは自分が強きことに誇りをお持ちのようですが、そのあまりに他者を弱いと思ってはいけないのです」






 その口調にも揺るぎはない、どころか逆に私が揺さぶりをかけられているような気がした。

「……綺麗事を」

 つぶやきながらも、私は剣を下ろしていた。ここで少女の首を刎ねても、何も意味はない。今でさえ十分に苦々しいが、刎ねていればさらに強まってしまったことだろう。



「強さを追い求めること、それ自体は構いません。ですが、他者を省みず、時に薙ぎ倒してまで求めるものではありません。それはもはや人ではなく、悪鬼でありましょう」



 少女はなおも私を見つめ、そう口にする。

「……なぜ、そんなことを私に言うのだ」

「私の持論です。そして、先程のあなたの闘いぶりを見て、感じたことです」

 少女は静かにそう告げると、ようやく私から視線を外した。そのまま部屋から去ろうとする。相手をするのもわずらわしいので、私はその背中に声をかけなかった。



 しかし、少女は扉を開けたところで、なおも言葉を続けた。






「今ならまだ間に合うかと思い、訪ねさせていただきました。……どうか、悪鬼にならないで」






 それまで揺るぎのなかった口調の中に、少しばかり懇願の色が見えた気がした。しかしそれを問う前に、少女は扉を閉め、足音を響かせて去っていった。






 再び、部屋の中では私が次の出番を待つ間の、静かな時間が流れる。窓の外では別の試合が行われているのだろう、観衆の歓声が聞こえてくる。コロッセオの舞台に立っている時に比べて、その声はあまりにも弱々しく思えた。



 その中で、私は考えざるを得なかった。あの少女はいったい、私に何を求めているというのか。強さを求めることの何が間違いだというのか。強く在ること、それはこの国の剣闘士奴隷としての存在意義であり、私の誇りであり、何者にも負けることは許されない。だから私は誰よりも強く在らねばならない。私とは、そういう存在だ――そのことに、あの少女は懸念を抱いているように思えた。



 私は、何も間違ってなどいないはずなのに。



















「勝者、グリーブ=べルゾトス!! よくぞここまで勝ち残った!!」



 これまでの試合と同様に、数瞬前までは同じ剣闘士奴隷であったただの死体を見下ろしながら、私は審判の声を聞いていた。私自身の体にもいくつか傷がつき、紅い血がゆっくりと流れ出していたが、この程度で死にはしない。
 そして告げられた審判の声は、今回の大会で私が最後まで生き残り、最強の闘士となったことを意味するものだった。それを理解したのは私だけではない。観衆すべてが、これまでをはるかにしのぐ、大きな大きな歓声をあげる。そのすべてが私に向けられているのだと思うと、恍惚感を禁じ得なかった。



「では、これよりそなたには女王陛下より勲章が授けられる。そのまま控えているがよい」

「はっ」



 審判にそう告げられ、私は跪いた。ほどなくして、新たな人影がコロッセオの舞台に上がる――私は思わず目を見開いた。先程の少女が、女王という立場に相応しいとされるのであろう、装飾過多な服装に身を包んで、跪いた私にゆっくりと歩み寄ってきていた。
 やがて、女王の靴が私の視界に映る。腕だけではなくこの足も、私の手なら容易く折ってしまえそうなほどに華奢な印象があった。



「顔を上げなさい、グリーブ=ベルゾトス」

「はっ」



 姿が変わってはいても、響く声は部屋で聞いた時と同じ、揺るがぬものだった。そして表情もまた、部屋で見た時と変わっていなかった。なるほど、女王であったのならば頷ける話だ。



「この闘いを最後まで勝ち抜いたあなたに、私、リフィーナ=フィセルクロイドより、この国の最強の闘士の証である、剣闘王の称号を授与します」

「は、ありがたき幸せ」



 女王はそう言うと、傍らに控えさせていた者から小さな箱を受け取り、その中身をゆっくりと取り出して、私にそっと差し出した。中に十字のようなものを埋め込まれた青い宝石が、鎖に通されている。装飾品の一種のようだ。
 私はその勲章を受け取りながら、女王の表情をじっと見つめていた。女王も私の顔をじっと見つめていた。そして口を開いた。



「これからもこの国のために、あなたが最強の闘士であり続けることを祈ります」

「全身全霊で励む所存です。……失礼ながら、女王陛下よ。お願いがございます」

 私は女王を見つめたまま、言葉を返した。傍らの者が眉を顰めたのが見えた。

「聞きましょう。なんですか?」






「私は強くあることが存在意義です。女王が私を認めたならば、私も女王を認めたい。そのためには、ぜひとも剣を交えさせていただきたい」






 跪いたままではあれど、私は出来る限り声を張り上げてそう言った。瞬間、コロッセオからどよめきが起こった。このどよめきは弱々しくも持続的に大地を揺らすような、そんな感覚があった。



「構いません。確かにそれも一理あるでしょう」



 しかし周囲のどよめきなど意に介さないかのように、女王ははっきりとそう言った。その声に、女王という地位から来る見栄などは感じられない。感じられたのは、ただ女王自身が私の願いを迎えようという、揺るぎない意志。
 剣を持ちなさい、と女王が告げた。傍らの者は動揺を見せたが、逆らいがたかったのか、何も言わず女王に従った。ほどなくして、女王は細身の剣を握った。



 その立ち姿を見て、私の感覚は異様なまでに高ぶった。初めて見た時の印象は華奢で儚げであったのに、今はなんと雄々しく、強きことか。






 私は先程最強の称号を手にしたばかりだが、まだ終わりではないのだ。この女王との闘いを制してこそ、私は真に最強となるのだ。そう思うと、もう私は自分の中の興奮を抑えていることはできなかった。



「お聞きくださり、真に光栄。女王よ、我が手で命を落とされても、恨み言は許さぬぞ!」



 考える前に、そんな言葉が口をついて出た。しかしその瞬間、女王の表情には悲しげな色が宿ったように見えた――が、そう感じはしても、もはや気にしていられるほど私は考える理性を持ち合わせていなかった。






 誰に合図されるでもなく、私は女王に向かって全力で斬りかかっていた。



















「お怪我はありませんか、リフィーナ様!?」



「……大丈夫です。返り血、ですから」



 狼狽して駆け寄ってくる近衛兵を制止して、私は目の前の死体を見下ろしていた。先程、この闘技大会を制し、私の手で国内最強の闘士の称号を与えたばかりの、グリーブ=ベルゾトスという剣闘士奴隷の、死体。

 闘いぶりを見ていた時から懸念を感じて、忠告までしたのに、聞き入れてはもらえなかった。結局、彼は最後の闘いに勝ち残った時点で、心ある人ではなく、ひたすら他者を喰らって、飽くなき強さを追い求めようとする、悪鬼となってしまっていた。

 国内最強となるほどに強いのに、どうしてそれをこの人は他の人のために使えなかったのか――原因は、この人の中にあるものだけではないのだと、思う。



 剣闘士奴隷が、人ではなく娯楽動物として扱われ、ただの奴隷であれば時には家畜以下の扱いをされ、それが当たり前になってしまっているこの国の制度が、根本的な原因なのだろう。



 私は、女王。だけどその地位は飾り物で、実際に国を動かしているのは、グリーブ以上に他者のことを省みず、自らの私腹を肥やし、市民にはそれを見せないような制度をこしらえている者たちばかり。

 私は、王族として生まれたばかりに、彼らの席に介入することが最初からできなかった。王族はあくまでも国の象徴であって、国を動かす存在ではないとされ、私は最初から閉じ込められていた。






 このコロッセオで闘いが行われるたびに、私の心は悲鳴をあげる。国の人々は、このコロッセオを神聖な場所だと信じて止まないでいる。そしてこの場所で行われる闘いの模様に、喜び、白熱し、酔いしれる。



 けれど、私の印象は神聖さとは程遠いものだった。その舞台に上げさせられた人々は、生きるか死ぬかの争いをして、血の匂いが色濃く立ち込め、屍が積み重ねられ、やがて生き残った人々も、自分が強いと思い込むために他者を喰らう悪鬼と化してしまっている。



 私には、このコロッセオは呪われた場所だとしか思えなかった。



 その呪いは私が生まれるずっと前から、今この瞬間まで、そして、終わりなどないのではないかという絶望を感じさせるほど、続いている。






 せめて私は、その呪いの中で生み出されてきた悪鬼たちがこれ以上人を喰らわないうちに、屠っていくことにしようと決めていた。






 どうかこの呪いに、終わりがもたらされんことを願いながら。
















お題バトル作品
テーマ:王族
お題:宿命 血 戦乙女 誇り 社会
参加者:SHASHAさん 空也さん ゆーきさん Lina-Mさん 竹田こうと


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