よく、こんな話を聞きませんか?
 あるいは、一度でも聞いたことがありませんか?













 月の光は人を狂わせる、と。



































































「キモいよ、あいつキモい」


「見てよあの子。道取りすぎだよね。超ウザー」


「なんだよお前、こっちくんなよ、キタネーのがうつるだろ」



 加寿子(かずこ)はそんな言葉をぶつけられ続けて育った女児だった。










 特に醜い容姿をしていたわけでもない。知能障害があるわけでもない。



 しかし、彼女の両親以外に優しい言葉をかけてくれる者は誰もいなかった。



 それどころか悪意に満ちた誹謗中傷ばかりを浴びせられ、彼女の性格は日に日に鬱屈したものとなっていった。









 
 なぜ、加寿子がそんな目に遭うのか。



 答えは、加寿子には生まれた時から両足がないからだった。



 加寿子は、生まれた時から『自分自身で歩く』ことが出来ない女だった。



 自分自身で歩けず、幼稚園に入るまではずっとベビーカーの中に閉じこもっていた。



 そして、幼稚園に入ってからは、ずっと車椅子の世話になっている、そんな女児だった。

















 しかし、彼女にとって最大の不幸だったのは、両足が無いことではなかった。



 その彼女を理解してくれる人間が、両親以外に誰もいなかった。




















 それどころか、同じ保育所のある子供は、加寿子を罵り、加寿子が傷つき暗い表情に沈むのを見て愉快そうに笑っていた。






 またある子供は、加寿子の車椅子姿にあからさまな嫌悪を抱いて近寄ろうとしなかった。






 さらにまたある子供は、加寿子をむりやり車椅子から引きずり下ろし、動けずにいる加寿子に車椅子で体当たりをし、
 まるでボールを転がすかのようにして楽しんだりした。















 それだけではなかった。
 加寿子に対するいじめを見た保父や保母も、一応は相手を叱り飛ばすものの、それは体裁を繕うためであり、
 その後加寿子に手を差し伸べる大人は、誰1人としていなかった。






























 その実態はすぐさま両親の知れるところとなり、加寿子はしばらくの間、家から1歩も出ない生活を送っていた。







 その時までは共働きだった両親も、以後は母親が仕事を辞めて、出来る限り加寿子に付き添うようにしていた。






 しかし加寿子はそんな母親すらも信用しなくなっていた。


























「どうして助けに来てくれなかったの」


























 母親の顔を見るたびに、子供とは思えないような低い声で、呪うようにして加寿子はつぶやいていた。





 はじめは娘のそのつぶやきに痛ましい顔をしながらも、母親は何くれとなく世話を焼いていた。





 しかしそれでも加寿子は恨みがましいつぶやきを止めず、それは次第に母親を怯えさせていった。







































 やがて母親は、加寿子から逃げるように、仕事に復帰した。





 加寿子のために出来るだけ早く家路についていたという父親も、加寿子のいる家から足が遠のいた。































































 小学校にも上がらないうちに、加寿子は1人になった。





 そして実際に小学校に上がる歳になっても、加寿子は学校に足を運ぶこともなく、ずっとずっと、家に引きこもり続けた。
































































 まったく変化のない日々だった。





 生きることに興味をなくしながら、生きるため行為だけを無機的に続ける。





 腹が減ると、適当に物を食べる。眠くなったときに寝る。





 それ以外の時間、加寿子は外界を強く呪いながら、家のベランダの窓から、空をじっと見つめていた。































 そんな日々が続いた、ある日のこと。





































































 いつものように、加寿子は空を見上げていた。
 青空であろうと夜空であろうと、それは変わりのない行為だった。部屋の電気を点けず、暗闇の中から、加寿子は空を見上げ続けた。
 その時、見上げた先にあったのは夜空。そして、その夜空の中に強く光る満月を、加寿子は凝視していた。







 ――ミンナミンナ、キエテシマエバイイノニ――








 強い呪いの気持ちを込めてそうつぶやきながら、加寿子は満月を凝視していた。






























































 ――ケシテシマイタイノカ?――
































































 不意に、そんな言葉が加寿子の頭の中に響いた。それは加寿子の呪いの言葉に対する返事のように。
 その時まで無表情を崩したことのなかった加寿子の顔が、唐突に、大きな驚きを含んだものに変わった。
 そして、誰かいるのかと言わんばかり、加寿子は周囲を見回した。が、誰もいない。







「なに……?」



















 ――オマエハイッタ、キエテシマエバイイノニ、ト――




















 言葉はなおも続いた。加寿子は不意に確信した。誰かはわからないが、私に話しかけてくる人がいる、と。







 今は離れてしまった両親以外に、そんなことをする存在がいたのは、加寿子にとって初めてのことだった。






























「あなたは誰?」






 加寿子は声を出して、その存在に呼びかけた。



































 ――オマエノネガイヲキキドトケシモノ。オマエガワレヲミツメテイタユエニ――
















「見つめていた……私が?」





 返事をして、加寿子は再び夜空の満月を見上げた――もう1つ確信した。今、私は目の前の月と会話をしているのだ、と。
























 ――オマエハ、スベテヲケシタイノカ?――























 月は、なおも問いかけてきた。加寿子の頭の中に響くその口調からは、何者も逆らうことの出来ない絶対性を備えた響きがあった。
 しかし、加寿子はその声を聞き、不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。




































































 ――ヨカロウ。ナラバ、スベテヲケスタメノチカラヲヤロウ。スキニツカウガヨイ――


















 そう響いた刹那、加寿子の心臓の鼓動が、1度だけ大きく響いた。ドクン、と。
 本来なら聞こえないはずのその鼓動の音は、加寿子の耳にしっかりと届いた。
 そしてそれは揺るぎない確信を加寿子に与えた。















 たった今、私は力を授かったのだ、という確信を。























































































 目の前の窓を開け、ベランダに出る。その縁に両手をかける。
 ここで、長い間使用した車椅子と、加寿子の体が離れたが、加寿子はまったく気にしなかった。
 そして、加寿子は縁を越え、宙へと身を投げ出した。





 しかし、両足の無い加寿子の体は真下には落ちなかった。すなわち、空中を浮遊していた。
 それは加寿子の目の錯覚ではなく、紛れも無い事実だった。
 加寿子はその事実に、そして自らが間違いなく力を持っていることに、そこで大いに酔いしれた。
 この力があれば、今まで私が思ってきたことができる。加寿子はさらなる確信を得た。
 その確信、そしてそこからくる大いなる喜びの奔流に身を任せるように、加寿子はぐんぐん上空へと飛び上がっていった。




























 やがて、飛び立った場所、加寿子の住んでいたマンションが闇夜の住宅街に紛れ、自らの目では確認するほどができないほどの、
 そんな上空に加寿子は舞い上がった。
 そこで加寿子は飛び上がるのをやめ、所々に明かりがちかちかと点いているだけの、闇夜の街を見下ろした。
 その光景は、真下を見つめているにもかかわらず、闇夜の中にちかちかときらめく星々のよう。






「きれいね……。こういうのも、悪くない」






 しばらくの間、加寿子はうっとりとした表情で、自らの真下に輝く地上の星を見つめていた。













 どうせ、あと少しすれば、この光景も消えてなくなるのだから。































 しばらく地上を見つめていた後、加寿子はゆっくりと目を閉じた。
 そして、自らの真下に向けて、右の掌を差し伸べた。
















 そして、短く、強く、念じた。





























































































 ズン。




































































































 響いたのは、たった1つの音。轟音と呼ぶにはあまりにも短く、しかしながらあまりにも重苦しい音だった。







 その音が響いてしばらくしてから、加寿子はゆっくりと目を開き、もう1度自らの真下を見た。







 ほんの数秒前まできらめいていた地上の星々は1つ残らず消え去っており、真下には闇が広がっているばかりだった。































「……わからないわ。これじゃあ」











 加寿子は味気の無さを感じていた。地上の星はすべてが消えた。
 しかしそれだけでは、本当に自分が消したいものを消せたのかどうか、その実感が加寿子にはまったくつかめなかった。










 そんな加寿子に対し、再び声が響いた。






























































 ――ケシテシマエバ、ナニモノコラヌ。オマエハナニガミタカッタノダ?――






























 加寿子は空を見上げた。満月は先ほどまでと変わりなく、強く光っていた。



















































「私が苦しんだように、他の人も苦しんで、それでもって消えちゃえばいい、って思った」







































































「けれど、あなたのくれた力では、無理なのね」







































































 ――ダイジナノハ、ケッカヨリモカテイダッタ、トイウワケカ――































「構わないわ。どうせ最後には消えるんだもの。私の嫌いなこの世界も。私が好きなさっきの光景も。そして、私自身も」











 加寿子は微笑んだ。それは何かに納得し、心からの満足と、自分のやりたいことを見つけた喜びを表した微笑みだった。


































































 ――シッテイタノカ。スベテガキエルコト、ソレハスナワチソナタジシンモキエルトイウコトヲ――



























「そうだったんだ? 知らなかったわ。……でも、願ってはいたの。ありがとう、お月さん」































 そこで加寿子は花のような笑顔を満月に向け、それから視線を移した。再び、真下の暗闇へと。






























































「さあ、続けましょうか。一夜限りのお祭りを」

























































 足の無い体で、滑るように空を舞い、加寿子はどこかへと飛び去っていった。






























 ※突発性競作企画『月夜(つくや)』応募作品

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